影響を受けた学者・著作

サイト『古代世界の午後』のプロフィール欄に、「影響を受けた学者・作家」という項目があり、そこには以下のように記載しています(プロフィール欄を読む人などほとんどいないのはわかっていますが、それでも毎月一定量のアクセスがあり(読まれているかどうかは判別しようがないが)、説明不足であると自認している部分も多いため、このような記事を書いてみたわけです)。


 間主観性の社会学、知識社会学、ピーター・バーガー、デュルケム、ニーチェ、ドストエフスキー、バタイユ、ロ バー ト・ニスベット「歴史とメタファー」、エーコ「薔薇の名前」


これを見た人は、あまりに古いという印象しか持たれず、またあまり相互に関連がないように考える方も多いものと思うのですが、最近、より近年の著作や用語で解説可能な状況になってきたため、少し説明を入れたいと思います。

これらは私が大学時にその主要著作を読んで影響を受けた著者・著作です。『薔薇の名前』だけは在学中は日本語訳が出ていなかったため、卒業後に読んだものです。ただし、1984年には既に日本で解説本が出版され、1986年に映画が公開され(日本公開は87年12月)、公開前後に多数の解説本や論説が出たため、学生時代に影響を受けていたのは正確にいえばそちらの方ということになります。日本語訳が出たのは1990年で、その時読んで、それまでの理解の通りだったことを確認した、ということなので、私にとっては影響を受けた本の位置づけとなっています。

80年代中盤は、既にポスト構造主義/ポストモダンが流行している時代でしたので上記のメンバーは、80年代でも既に古い面々です。ポストモダン、特にフランス現代思想に該当するような方々については、彼らの著作自体は、大部であったり、学生には難解過ぎたり、書籍が高額過ぎたり、或いはまだ著作の日本語訳が出ていなかったり、という理由で、当時は、著作の一部を読んだ人はいるものの、基本的には彼らについて解説した書籍を読む段階でした。これに該当するのはレヴィ・ストロース、ドゥルーズ=ガタリ、アルチュセール、デリダ、フーコー、ブルデュー、ブローデル、ダントー、ヘイドン・ホワイト、などです。解説本を読んだだけでは、「影響を受けた」などと書くのはおこがましく、また、解説本の題名や著者を記載した場合、解説本は数年もすれば時代遅れとなってしまい、書名を見てもわからない人が増えてしまいます。そこで、プロフィール欄には、少なくとも主要著作を読んだ人に絞って記載したわけです。またもう一つ、ポスト構造主義はさすがに歴史学にとっては行きすぎ(特にデリダとバルトとドゥルーズ、ラカン)という感覚があり、彼らの著作を読むのは重要著作が日本語訳され、もう少し議論と評価が煮つまってから、という意識もありました。これまで細かい解説は記載していませんでしたが、プロフィール記載の影響を受けた学者は以下のように展開できます。

□間主観性の社会学/知識社会学/ピーター・バーガー : 構築主義、社会における主観(ウェーバー)+客観(デュルケム)の総合化 +間主観を支えるコスモス(ナラティヴ)(ノモス/コスモス/カオス理論)+制度の歴史学(フーコー、ブルデュー等)、

□ニーチェ : 主観性史学、ウェーバー、バタイユ、フーコー、ヘイドン・ホワイト、ポール・ヴェーヌ(史的唯名論)

□デュルケム :客観性史学、アナール派(計量統計史学、社会史)

□ロバート・ニスベット『歴史とメタファー』:物語論、間主観を支えるコスモス、アーサー・ダントー『物語としての歴史――歴史の分析哲学』とヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』がまだ未訳で未読だったため、『歴史とメタファー』で代替、

□ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』: 言語論的転回、普遍論争(実在論VS唯名論)

□バタイユ:(人類史/欲動/呪われた部分/禁止の侵犯、ドゥルーズ=ガタリ(コード/超コード/脱コード))

□ドストエフスキー:近代化及び上記内容の小説仕立ての思考実験
 ドミトリー・カラマーゾフ(主観:歴史主義、伝統社会(ゲマインシャフト)、ノモス)
 イワン・カラマーゾフ、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキー(客観:近代西洋社会(ゲゼルシャフト)、コスモス)
 アリョーシャ・カラマーゾフ(宗教共同体社会による伝統社会と近代西洋社会の止揚。ただし成功しない、コスモス+ノモス)
 ニコライ・スタヴローギン(欲動/呪われた部分/ニヒリズム、カオス)

ざっくり言えば、

 間主観性の社会学/知識社会学/ピーター・バーガー、デュルケム、ニーチェ、ドストエフスキー、バタイユ、ロ バー ト・ニスベット「歴史とメタファー」、エーコ「薔薇の名前」

は、最近の用語では

 知識社会学/構築主義、データサイエンス、ニーチェ、思考実験小説、『サピエンス全史』、『メタヒストリー』、言語論的転回

が近いような気がします。バタイユを『サピエンス全史』で置き換えるのはかなり違うと思うのですが、最近の作品で近いのはこれしか思いつきません。ニーチェだけは他に置き換えようがありません。


昨年記載した、「最近読んだ近年の歴史学方法論関係の書籍(2)言語論的転回<2>日本での受容」の記事で、「言語論的転回」という用語は、「言説・構築性/物語性・認識論・研究体制(言説の再生産とその限界)」を表象する用語だと記載しましたが、これらは上記内容の一部に相当しています。私はこれらを歴史学方法論と認識していましたが、80年代の史学専攻では、歴史学方法論というと、マルクスかウェーバーか、或いはトインビーか生態史観か、というような段階で、アナール派に代表される社会史もまだ学部に落ちてきていない段階でした。これらの話は、歴史学科以外では多少は通じましたが、史学科ではまったく通じませんでした。『薔薇の名前』も一般には単なる中世西洋の歴史小説だと思われていた時代です。歴史学方法論を扱っているとの卒論の題名を見て、ひとり興味を持って問い合わせてきた同期がいましたが、彼は環境史学(これもまだ学部には落ちてきていなかったが)の人だったので、怖くて見せられなかった時代でした(環境史学の卒論も当時としては十分先進的だった)。

80年代中盤、ニューアカデミズムや現代思想が流行していましたが、これらの本を読むことは、真面目に学問をやっている人々からすると、恥ずかしいことでした。私はこれらの著作を読んでいることを周囲の人に言えませんでした。一般的には、ニューアカデミズムは単なるファッションでしたから、これらの本を読んでいると馬鹿にされたのが実態です(今でも馬鹿にされるかもしれないが)。浅田彰『構造と力』は、そのファッション本の最たるものでしたが、私はこの本に大きく影響を受けたと考えてきました。この本を読んでいたと明確に発言するのはこれが人生初めてです。しかし、記事を書きながら当時の読書リストなどを調べてみると、もう少し複雑な展開をたどっているようです。『構造と力』は1年生の12月に読み、その時はほとんど内容がわからなかったのですが、この本とは関係ない因果関係で読んだ諸本に、この本に登場する著作や学者が登場していたため、2年生の冬に再読した時にはかなり理解ができて、結果、記憶の上では、『構造と力』を読んでニューアカデミズムの方にいってしまった、という自分史観が成立してしまっていたようです。そこで高校から大学時代にかけての読書歴とそれぞれの因果関係について読書リスト等から復元してみたところ、あまりに長大な文章(8時間も書いてしまいました)となってしまったので今回の記事からは割愛しますが、基本的には以下の系譜があるようです。

高校時代の地理学→世界認識の歴史、日常世界のあらゆる文物の歴史(→ピーターバーガー、アナール派(→デュルケーム))
高校時代の数学と倫理社会→西洋思想史全体の普遍論争の構図での理解→西洋法制史→歴史理論→物語論
高校時代の国語→ボルヘス→『薔薇の名前』→普遍論争
大学1年の地学の授業→知識社会学→ピーターバーガー
大学2年の生物学の授業→文化人類学、ピーターバーガー
大学1,2年のローマ史→弓削達→ウェーバー→歴史理論→物語論

高校時代の地理の授業がなぜ世界認識の歴史につながったかというと、この授業は少々特殊な授業で、教科書の冒頭にある4頁ほどの「地理学の歴史」だけを1,2学期でやる授業だったのです。古代から近代にかけての地理学の方法論と地理認識=世界認識を学習する、というもので、最後の方はフンボルトとリッターでヒトコマ、ラッツェルとブラーシュの環境決定論と環境可能論でヒトコマ、という大学の講義みたいな授業でした。この授業の影響で、物理、化学、生物学、数学などの分野の歴史本を読むようになり、日常世界のあらゆる文物の歴史に興味を持つようになりました。

私の中では長らく ローマ史→弓削達→ウェーバー→歴史理論、或いは ヘーゲル/マルクス主義/トインビーへの批判→物語論 という展開だったのだという自己神話があったのですが、どうやらそれだけではなく、今年の春、西洋法制史の本を読んでいて、当時の学部一般での古代中世近世西洋史が基本的に法制史であり、その法制史が普遍VS個別という機軸で認識されていることや、法制史で登場する分析概念の「コロヌス」「封建制」「荘園制」「自由都市」等が今でいうところの「言説」としか思えなかったため、言説研究→言語論的転回に結び付いていった、という方がより本質的であるように思えるようになりました(このあたりは現在西洋史の研究者に言語論的転回に表象される内容を受容している人が多い共通の要因であるように思えます)。言語論的転回に表象される現象の受容は、大きな歴史理論への批判や単なる流行というだけではなく、もっと西洋史研究の身近な部分にあるような気がしています。

こうした、いろいろなところで芽生えていたものが、ドストエフスキーによって関連づけられ、その各々の理論的背景を追いかけていった結果、ピーター・バーガーとバタイユ・ニーチェ(コスモス/カオス/ノモス論)に収斂されていく感じとなり、この段階で『構造と力』を再読したため、単体の本としてこれら全てに言及している『構造と力』に影響を受けた、という認識となってしまった、ということのようです。そして最後に私にとって言語論的転回と物語論を象徴する書籍として『歴史とメタファー』と『薔薇の名前』が登場した、と位置付けると、結構すっきりします。

長文の読書展開を書いている時に、漠然と、中学高校時代については以下の系譜も思い浮かびました。

『2001年宇宙の旅』→文化人類学、ニーチェ、唯名論、
『銀河帝国の興亡』(心理歴史学)→数理社会学(→数量統計史学)、歴史理論
数学→プラトン→実在論→普遍論争
高校1年の頃に出会った講談社世界の歴史シリーズと、タイム社のライフ人間世界史→物語論

実家にあった中央公論旧版『世界の歴史』シリーズと学校の教科書という歴史観しかなかった私にとって、高校生になって図書室で出会った講談社世界の歴史シリーズとタイム社のライフ人間世界史は、世界史像の相対化という点で衝撃を受けたシリーズでした。講談社世界の歴史シリーズには、歴史は全ての地域・時代について同じ密度でまんべんなく研究され叙述されるべきであり(「上空10㎞の歴史学」)、逆に一部を強調した歴史編集自体がナラティブであること、ライフ人間世界史には、西洋中心主義の世界観によって編集された歴史像を知ったこと、ここに大学時代になってからの物語論の受容の震源があるような気がしています。中学高校という多感な時期にinputされたことは、意外に後の人生に影響を与えているようだ、ということのような気がしました。

80%削除した最初の原稿から、ひとつだけ付け加えたいと思います。それは、学生時代興味を持ちながらもとりかかれなかったものの中のひとつである心理学関連です。

当時心理学にも興味がありましたが、フロイトやユング、ラカンは文学だとの印象があり、今でも読まなくてよかったと思っています(柄谷行人は『世界史の構造』でフロイトに入れ込んでいましたが、あれは削除した方が良い。でもドゥルーズやバタイユの欲望史観はOK)。当時心理学で科学的だと思えたのは、認知心理学とピアジェの発達心理学でしたが、人類の心理史や無意識史を研究できるような段階にはまったく至っていなかったことと、この分野に手を出す時間は無くなってしまったため、学生時代はほとんど手を出せずに終わりました。ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙意識の誕生と文明の興亡』(1976年)はまだ邦訳がありませんでしたし、ユング系のエーリッヒ・ノイマン『意識の起源史』の日本語訳はちょうど出版されてタイムリーでしたが、原著が1949年の出版と、大枚出して買うには古すぎ、結局読まずに終わってしまいました(解説を読んだ限りでは、グノーシス思想/種子のメタファー/ヘーゲル主義というナラティブに感じました)。後期レヴィー・ストロースも、彼の壮大な理論は、結局は彼自身の主観的な物語に還元される、と指摘されていたため、老後に読めばいいや、的なところで留まりました。近年では、認知科学や生理学が進歩し、認知考古学とか進化言語学や進化心理学などの研究ジャンルが固まってきているようなので興味があるのですが、まだ仮説ばかりの段階のようなので、あと十年くらい様子を見ようと思っています(少しは読むかも知れない)。

この記事を書き終えて読み返してみたところ、少し思ったのは、「影響を受けた学者・著作」には、明らかに『2001年宇宙の旅』『銀河帝国の興亡』とかボルヘスとか講談社世界の歴史シリーズやタイム社のライフ人間世界史が入っているので、それらを追加すべきではないか、ということと(『構造と力』上野千鶴子『構造主義の冒険』バーノン・レイノルズ『人間行為の生物学』、ベルタランフィ『一般システム理論』も入れた方がいいかも知れない)、大学卒業以降に影響を受けたものはないのだろうか?ということでした。そこで少し考えてみましたが、学生時代、学生時代は人生理論編、卒業後は人生実践編、と考えて過ごしていて、文字通り卒業後はそのように過ごしてきたため、影響を受けた、と考えて思い浮かぶのは、コンピュータ、インターネット、遺跡、グローバリゼーション など、モノ的なものです。著作で唯一思い浮かぶのは、フリードマンの『フラット化する世界』くらいです。著作自体を読んでいないものの、グローバリゼーションに関してもっとも影響を受けた理論は学生時代社会学のテキストで学んだ従属理論だったりします(社会学のテキストとして利用した東洋経済『基礎社会学』全五巻も大きな影響を受けた書籍です。文化人類学は、『文化人類学15の理論』とそこから進んだ紀伊国屋書店の文化人類学叢書と山口昌男(ただし山口氏は啓蒙書は何冊か読んでいるが、彼の研究書は読んでいない))。私の中での歴史学方法論はこの30年ほとんど変わりありません。寧ろ、近年の世界は80年代に戻ってきてしまっているような印象さえ受けているくらいです。ここ10年くらいは人生応用編というフェーズに入っているような気もしますが、単なる過去の蓄積の消費に過ぎない感じもしていたりします。応用編の次って何だろう???    と、とりとめもなく思考が発散するようになってきてしまいましたので、とりあえずこの記事はここで終わりたいと思います。

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