今回は、言語論的転回の日本での受容です。
私の学生時代(1980年代)は(私の周囲では)、このあたりの議論は、歴史学側にぜんぜん受容されてはおらず、同じ西洋史専攻や史学科の同級生に、歴史方法論を勉強している、というとマルクスか、ウェーバーか、ときかれ、どちらでもない、と答えると、うさんくさそうにトインビー?生態史観?と口にされるような状態で、よくても哲学だと誤解され、前提が遠すぎて話が通じない状況でした。言語論的転回及びそれに類する構築主義的言説は、80年代当時の日本では、哲学、文化人類学、社会学、文学ではかなりの程度受け入れられてたものと思うのですが、歴史学ではそうではなく、最近でもどの程度の受容度なのか、いつ頃どのように歴史学内に浸透してきたのかが知りたいと思い、調べています(このあたりの方法論が卒論のテーマのひとつでしたのです。卒業後の30年間の動きを、今、学習しているところです)。
(1)キーとなる書籍
『岩波講座 哲学 歴史/物語の哲学』(2009年)所収の小田中直樹氏「「言語論的転回」以後の歴史学」で日本の歴史学界での反応ぶりが簡単まとめられていました。それによると、キーとなる書籍には以下のものがあるようです。
『思想』1994年4月号 「歴史学とポストモダン」特集 838号
遅塚忠躬(「言説分析と言語論的転回」(『現代史研究』42号1996年)
『歴史学の〈危機〉』邦訳1997/10 ジェラール・ノワリエル、小田中直樹訳
小田中直樹(「イギリス労働者階級成立史研究に関する研究報告」(『言語論的転回と歴史学』(pdf)(2000年)
『歴史叙述の現在―歴史学と人類学の対話』2002/12 森明子編(一部に関連論説掲載)
中村政則「言語論的転回以後の歴史学」『歴史学研究』779号、2003年
キース・ジェンキンズ『歴史を考えなおす』(邦訳2005年)岡本充弘訳
『物語の哲学 増補版』(岩波現代文庫, 2005年)
岩波講座 『哲学<11>歴史/物語の歴史』 2009年
遅塚忠躬 『史学概論』(2010年)
『思想』2010年8月号 「ヘイドン・ホワイト的問題と歴史学」1036号
『歴史を射つ: 言語論的転回・文化史・パブリックヒストリー・ナショナルヒストリー』2013年:岡本充弘編
『現代歴史学への展望――言語論的転回を超えて』2016/5/25 長谷川貴彦
『メタヒストリー』邦訳2017年
『思想』2018年3月号「〈世界史〉をいかに語るか――グローバル時代の歴史像」
一瞥して、歴史学の雑誌ではほとんど論じられておらず、一部の書籍も歴史学ではなく、歴史哲学に分類されているのではないか、と思えるラインナップです。これだけ見ていると、やはりまだまだ、という感じがします。『思想』1994年4月号で論者6名のうち日本人は1名だったのと比較すると、『思想』2018年3月号では、論者9人中6人まで日本人というのは大きな前進です(岸本氏はこの手の議論とはまったく関係ない人ですが、、、)。
全体的な流れは前回記載した経路図の通りです。
2013-14年に、『歴史と事実―ポストモダンの歴史学批判をこえて (学術選書)』(2012/11、大戸千之著)、『歴史学の未来へ』(ノーマン・ウィルソン著(2011年)南塚信吾・木村真監訳)を読み、『歴史を射つ』の第一部、遅塚『史学概論』の言語論的転回の部分を読みました。その時の印象では、あまり受容されている、という感じはしませんでした。言語論的転回という用語で表象されている内容は、おおまかにいくつかにわけられます。(あくまで私の捉え方です)ざっとあげると、以下のような分類でしょうか。
言説・構築性/物語性・認識論・研究体制(言説の再生産とその限界)
乱暴な言葉でまとめますと、大戸氏と遅塚氏は、カーの『歴史とは何か?』における構築論・解釈論からいくらも出ていない印象がありましたし、ポストモダンの歴史学を扱った『歴史学の未来へ』は、訳者あとがきに、英米学界との交流目的に翻訳した、とあるように、どこか他人事というような印象を受けました。『歴史を射つ』は、私の感覚では、まだ社会学の本で、実証主義歴史学の本ではないし、多く論じられているのは、物語論という印象がありました(物語論には偏見を持っていたので、最近野家啓一氏の著作を読んで、考えが変わりました。これは、日本語でnarrative と story が 「物語」という同一の単語として認識されることに起因する、言説問題そのもの、ということがわかりました)。2016年にでた長谷川貴彦氏『現代歴史学への展望――言語論的転回を超えて』は、本屋でざっとめくっただけなのですが、英米動向が中心で、文化人類学や社会学の香りがしなかったため*1、読まずに終わってしまいました(私は学生時代、文化人類学と社会学、記号論経由でこの分野の議論にゆきあたったため、英米の言語論的転回というと、ヴィトゲンシュタインやデリダ、ヘイドン・ホワイトや物語論のような、文学・哲学分野のものだとの印象を持っていたためです。『メタヒストリー』も、古典を記念に購入した、という意識でした。気になっていた、岡本充弘氏『開かれた歴史へ』も、題名から受けた印象は、ウンベルト・エーコの『開かれた作品』的な、史料(テクスト)の解釈論、という漠然とした認識でした)。
*1この認識は、最近改まりました。米国の「新しい文化史」には、クリフォード・ギアーツ、ヴィクター・ターナー、メアリー・ダグラス、といった、英米の文化人類学者やフーコーの影響が大きいことを知りました。
そういうわけで、今年に入り、実証主義歴史学者の方々が、ミネルヴァ世界史叢書の『「世界史」の世界史』の総論で言語論的転回や物語論を正面から扱っていることに非常に驚いたわけです。そこで、岡本充弘氏や長谷川貴彦氏の著作を読むべきか、読むとしたらどれから読むべきか、と思っていたところ、『思想』3月号で特集が組まれ、それを参考に読む順番が決まり、4月後半から順番に消化しているところです(かなり脱線していたりしますが)。最新の議論を知りたい、という点ももちろんありますが、当面の焦点は、学生時代、異次元扱いされた議論が、いったいどういう具合に、ミネルヴァ世界史叢書や『思想』3月号の方々に受容されるにいたったのか、という点と、歴史学界一般への受容具合です。
(2)具体的な展開
『思想』1994年の巻頭の短いエッセイで、英文学者の冨山太佳夫氏が、日本の歴史学界に喧嘩を売ったことがはじまりのようです(これは凄い。しかしこのくらい書かないと動かなかったのかも知れません)。それに遅塚氏が反論(1996年)し、小田中氏も1997年には、言語論的転回を批判するノワリエル(仏)の著作を翻訳しています。それとは別のルートで書かれた野家啓一氏の物語論に、やはり遅塚氏が反論(2010年)し、それに野家氏が再反論(2016年)する、という状況です。
小田中(2009)によると、日本の戦後人文学では新カント派が勢力を持っていたため、新カント派と密接な関係にあったウェーバーの受容に寄与した、との仮説を提出しています。言語論的転回は、新カント派の認識論のレベルと同一視され、特段日本の歴史学会は反応を示す必要を認めなかった、ということのようです。ウェーバーの概念装置も言説化しているため、社会的現実を表象する概念のもつ構築性が問われないわけではない、と思うのですが、言語論的転回を言語や概念・用語の認識の問題だけに収斂させてしまえば、そういうことになってしまうのかも知れません。小田中氏によると、英米の言語論的転回派は、その後「思想史」や「研究史」に分化していったそうですが、私が史学史や世界観の歴史に興味を持つのも、そういう文脈に回収されるのかな、と思った次第です。なお、小田中氏は、歴史学における受容は、「かなりの程度、歴史学界に受容され、吸収され、消化された。これら以外の点については、棄却され、あるいは黙殺された」(p138)と記載し、全体として「言語論的転回の流行という現象は終わり、過去のものとなった」(p123)と記載しています。
「言語論的転回」は、換喩化(『メタヒストリー』が売れたおかげで、このマイナーな用語が使いやすくなった気がします)して、物語論や構築主義一般を表象する用語になってしまっているような感じがありますが(私もそういう使い方をする時があります)、狭義の「言語論的転回」の歴史学への受容は、もう終了した、というのが小田中氏の見立てのようです。すると、次は、広義の「言語論的転回」に含まれる物語論と対決する(受容するのか撃破するのか、一部だけ取り入れるのか不明ですが)ために、『メタヒストリー』の邦訳が売れたのかも?、という気がしなくもありません。
(3)残る課題
しかし、ミネルヴァ世界史叢書の総論で言語論的転回に言及した方が、桃木氏や羽田氏だったとすると、「終わった」などとはいえないのではないかと思います。
率直に書きますと、中心にいる人は、言説問題に鈍感です。社会の主流であり、常識的認識(だと考えられている)を持つがゆえに、ある用語や概念がもつ権力性や政治性・恣意性に鈍感であり、逆にマージナルな人ほど、中心にいる人にとってのなにげない用語がもつ政治性・権力性に敏感となり、その構築性が問題となるわけです。言語論的転回は、言語論に限ればどこの国でも論じることが可能ですが、構築性や言説問題となると、言論統制のある国の歴史学界では論じること自体が難しいところがあります。この点でも、言論の自由な国にいる、非欧米日地域を対象とするベトナム史やイスラーム史研究者が、このあたりに敏感になるひとつの必然性がある、ともいえるのではないかという気がします(『「世界史」の世界史」の総論では、「歴史像」の構築性関して言語論的転回が言及されているのであって、少し角度が違います。しかし、言語論的転回に敏感になる震源はここらへんにあるのかも知れない、という話です)。
先ほどあげた分類、
言説・構築性/物語性・認識論・研究体制(言説の再生産)
のうち、言説・構築性の問題については、日本の歴史学界でも受容されたような印象があります。しかし、物語論と認識論については、相互の議論にいまだ食い違いがあり、今後も議論が深まるべき分野ではないかと思います。
論点のひとつには、歴史学は科学か?という議論があるように見えます。数学でさえ、いまだに プラトニズム的実在論・形式主義・数学は文学である・経験論 に分かれて認識・議論されていたりするので、叙述という行為に注目すると歴史学は文学である、という議論が出てきてしまうわけですが、記号の記述という側面に注目すれば、数学と歴史叙述はあまり変わりません。高等数学は、物理学と結びついて科学と化しているわけですが、歴史学も、考古学や環境学、20世紀後半からは数量史での数学など、諸「科学」と結びついていて、かなり地続きです。
研究体制(言説の再生産)については、アカデミズム批判の材料を待っているような人々に政治利用されることを避けるためかも知れませんが、学者はあまり触れたくない部分なのかも知れません。しかし確かに、史料が少ない地域ならともかく、近世以降の膨大な文書史料・書籍がある時代については、膨大な史料を編纂した先行研究の活用による歴史像や言説の継承問題は現実に存在するわけですし、だからこそキース・ジェンキンズ氏のような脱構築論者だけではなく、桃木至朗氏も『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』はじめ著作で発表し、大学や高校における世界史教育の変革活動を具体的に提言・実践しておられるのではないかと思います。研究史についても、小田中氏が、岡本充弘他編『歴史を射つ』(御茶の⽔書房、2015)書評会』(小田中直樹(2015 年10 月24 日、東洋大学)』のpdf(こちら)で以下のように述べている通り、この認識がどれくらい一般化しているかどうかはともかく、明確に認識されています。
「「歴史研究としての世界史」にとじこもる歴史愛好者(歴史学コミュニティ)の内輪話としての史学史は、もう飽きた。でも、ぼくらは「
言説のとしての世界史」にコミットするリソースをもっているのだろうか?」(p4)
認識論・物語論・研究体制については、まだまだ進行中で、特に認識論・研究体制は、永遠に進行するような種類の話なのだとは思いますが、全体的には、言語論的転回に類する議論は、少なくとも一部の研究者たちには受容されているようなのは、理解できました。しかしまだまだ道半ば、という感じがなくもありません(しかし、ミネルヴァ世界史叢書の編集委員の方の著者やpdfやブログやツイッターなどを見る限り、彼らの活動は、言語論的転回とそれに類する視点を吸収している気がします)。
(4)まとめ
冒頭で掲げた書籍はまだ全部読めておりませんし、今後全部読むかどうかは不明ですが、このあたりの議論については、少し現在の議論に追いついてきた気がします。今の時点で『歴史を射つ』第一部をもう一度読めば、いろいろ発見があるかも知れません(既に図書かで第一部だけ二度読んでいるのですが、その時は、相変わらず文学・哲学畑・社会学の話という印象でコピーをとる必要も感じなかった)。そのうち長谷川氏やハント氏の著作も読むかも知れません。
ミネルヴァ世界史叢書の位置づけの理解もより深まりました。歴史学の最前線では、とっくに文理融合の時代に入っているものと思うのですが、体制として確立していなかったり、一般社会の理解が進まない部分もあるかも知れません。今後の発展を願う次第です。
追記:『薔薇の名前』
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は、普遍論争と重要な関係があり、その普遍論争は、現代でも生きている、ということはWikipediaの『薔薇の名前』などに記載されていて知れ渡っていると思いますが、『薔薇の名前』は言語論的転回の本である、という話を書いている人は、検索すると日本語では227件しか出てこないので(そのページに両方の用語が登場しているだけで、関連づけて書いていないものも多いため、実数はもっと少ない)、このあたりももう少し広まって欲しいと思う次第です(関係を指摘している記事の例)。この本は言語論的転回だけの本ではなく、歴史小説であり、推理小説であり、普遍論争(現代でも今なお終わっていない。そもそも唯名論そのものが言語論的転回に連なる話)の書籍でもあり、更にひっくりかえしてメタミステリーでもあり、迷宮小説でもある、という多様な側面を持つところが、本書の凄いところだと思います(ミステリーの後期クイーン的問題は、まさに言語論的転回の一種だと思うのですが、この関連について書いている記事は検索しても出てこないのが残念です)。
次回に続く(次回は歴史方法論書籍のうち、教育関連のもの)
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