最近読んだ歴史学方法論の論説(10) 長井千秋著 遅塚忠躬『史学概論』の書評、言語論的転回、社会構築論の論説 ver1.3

言語論的転回(に表象されるテーマ)について、文書史料の多い西欧近代や日本以外の分野の研究者がどう考えているのかに興味がありました。近世中国史は岸本美緒氏が発言していますが、やはり史料の多い近世史です。それ以外の分野だと、桃木至朗氏の見解がご本人のブログに掲載されているくらいです)。

宋代経済史研究者長井千秋氏の論説を読みました。今回読んだのは、以下の3点です。

書評 遅塚忠躬『史学概論』

唐宋変革研究通訊 / 唐宋変革研究会 編 (7) 2016-03 p.63-76)

歴史学という営為をめぐる覚書 : 言語論的転回についての初歩的考察

唐宋変革研究通訊 / 唐宋変革研究会 編 (8) 2017-03 p.87-110)

歴史学の方法論をめぐる覚書 : 社会構成主義(構築主義)についての初歩的考察

唐宋変革研究通訊 / 唐宋変革研究会 編 (9) 2018-03 p.87-11)

著者は、ポストモダン、言語論的転回、社会構築主義が我慢ならないような印象を受けました(桃木氏の文章まで批判的に扱われているのが驚きです)。しかしその書き方は修辞に依存する部分や都合のいい情報だけを並べる傾向があり、非常にイデオロギー的に感じられました。長井氏の論旨の展開自体、テクスト論やレトリック論、認知言語学、認知心理学の分析対象として有用な材料に思えました。

所感に入る前に、この手の議論の大前提について若干記載したいと思います。18-20世紀前半くらいまでの世界認識の大きなテーマの一つに、観念論と唯物論があります。極論すれば、観念論が唯主観論、唯物論は唯客観論です。19世紀末頃から、この両者の中間に、客観的かつ主観的なもの(主観客観の相互作用、間主観性)として「社会的現実」というものの”実在”が想定されるようになり、社会学や言語学、心理学等の諸学問は、「社会的現実」を分析する過程で登場した学問だということです。社会学者であるデュルケーム(1858-1917年)、ウェーバー(1864-1920年)、ジンメル(1858-1918年)、心理学者のフロイト(1859-1936年)、言語学者のソシュール(1857-1913年)、サピア(1884-1939年)や、社会的現実に関係のある哲学者のフッサール(1859-1938年)等が同年代なのはこの背景があります。主観と客観というもののそれぞれの介入度合いは、現在「社会的現実」を巡って社会科学の諸科学で様々に分析・議論されており、あくまでこの前提内で観念論と唯物論の綱引きがされていて、まるっきりの観念論や唯物論はまずありません。また、極論的唯物論から見れば、「社会的現実」は主観(観念論)に見え、逆に極論的観念論から見れば、「社会的現実」は客観(唯物論)に見える、という傾向があるように思えます。現在本質主義VS構築主義や言語普遍論(言語生得論)VS言語決定論(言語相対論)で争われているのは、この「社会的現実」を巡る議論です。これらは社会的的現実に関する分析において、唯物論側に近いVS観念論側に近い、という話であって、「社会的現実」について議論しているのだ、という前提は、常に意識しておく必要があります。長井氏は、観念論と唯物論の単純化された二項対立で世界を認識していて、本質主義/言語普遍論的観点から、「社会的現実」を観念論≒疑似科学と認識している印象を受けました。

1.全体所感

全体的に、著者には、ソーカル事件は擬似科学の証明だった、社会構築論はソーカル事件を起こしたものと同じ種類のものである、社会構築論は言語論的転回論に基づいている、言語論的転回は、100年前の古いソシュールの言語学に基づいていて最新学説ではobsoleteな学説をより所としている、従って言語論的転回も社会構築論も疑似科学*1である、というような三段論法で、これらに関する歴史学に対する全ての指摘を疑似科学として無効化したい、という目標あっての恣意的論証に感じました。結論ありきで一部の論点を並べて理論武装して正当化する(これをイデオロギーという)類の20世紀前半くらいまでの歴史学こそが、上野千鶴子が批判した(上野氏にとっての”わら人形叩き*2”)歴史学観そのものだったのではないでしょうか。”言語論的転回とはこういうものだ”、”社会構築論とはこういうものだ”と一方的に断定し、穏健な見解に関しては、これは”転回論ではない”、”これは社会構築主義ではない”、”併存・折衷案はありえない””穏健な見解は転回論とは無縁のものである”と、断定してゆくさまは、”わら人形叩き”にしか見えませんでした。正直、著者の定義に合致する言語論的転回者や社会構築主義者は、上野千鶴子氏や一部のジェンダー理論家だけしかいないのではないか、との印象を受けました(その上野氏も*2の通り、歴史学に関する自身の極論を撤回している)。冨山太佳夫氏(1994)や上野氏(1998)は歴史学に喧嘩を売るようなこと書いたことを考えれば、やり返されても仕方が無いところはあるとは思いますが、特に『社会構成主義についての初歩的考察』の方は、こんなやりかたしかなかったのかと、残念でなりません(酷すぎて)。マクロとミクロの統合や本質/還元論に関わる議論は、歴史学/社会学/言語学/心理学だけではなく、物理学や生物学でも議論されている内容なので、一方の意見に立っている人が他学を覗くと必ず同調できる議論を見つけることができてしまう、という陥穽に陥りやすいものがあるため、本論説の読者もこのあたりに注意して読む必要があるものと思います(すべての学問を貫く思想的背景としては、究極的には唯名論VS実在論にゆきつくものです。西洋史研究者はこのあたりの背景を認識している方が多いはずですが、中国史研究者である著者はこの基礎的な知識がないため、片方の立場にたった意見は学際的に見つけることができる、というよくあるパターンに陥っています)。

*1 『言語論的転回についての初歩的考察』結論部(p103)にて、ソシュール言語学において反証可能性がされていないなら、疑似科学と見なされなかねない、としていますが、歴史学における反証可能性の定義は技術科学とは異なりかなり脆弱で、遅塚忠躬氏等が論理整合性と事実立脚性だと定義して辛うじて担保されている程度の概念です。ソシュール言語学に限らず言語学は実際に実験が可能なため、歴史学よりも反証可能性があることから、認知言語学等により更新されているのではないでしょうか。この記述は寧ろ歴史学に突きつけられてしまう逆効果な文言であるように思えます。
*2『ナショナリズムとジェンダー(増補新版)』(2012年)p298-99にて、上野氏は、『ナショナリズムとジェンダー』(1998年)で記載した歴史学と実証史学への批判を、理解の浅さによる「わら人形叩き」であったと撤回しています。『(初出「「民族」か「ジェンダー」か?ー強いられた対立『季刊戦争責任研究』26号、1999年冬季号)

2.「言語論的転回」について

言語論的転回は、言説や構築性、物語性や認識論、知識の分類体系やそれに基づく学問体制の問題等、多様な内容を表象する便利な用語であって、基本的に論者は「言語論的転回」と括弧づけで言及したり、「いわゆる言語論的転回」という具合に、「表象」「代表」用語として用いているのであり、極論に限定して議論しているとの印象を受ける文章を書いているのは上野千鶴子氏くらいしか思い浮かびません。この認識に相違があると、議論がかみ合わなくなるのではないかと思います。社会構築主義についても同様で、上野千鶴子自身が 構築主義の用語法には「ポスト構造主義の言語理論がこだましており」「社会の構築は言語を通じてのみ行われ」る(『構築主義とは何か』pii-iii)と書いている以上、上野氏の主張は観念論である、と反論が出てくるのは理解できます。しかし、長井氏の社会構築主義の理解や、認知言語学の成果の利用は恣意的で(氏自身も確証バイアスがあると書いている)、このような議論で「いわゆる言語論的転回」や社会構築主義が観念論・疑似科学だと一蹴するような議論のスタイルは大いに問題です。

現在歴史学界側で議論されている(あくまで括弧付きの)「言語論的転回」は表象である、ということは、その意味内容(シニフィエ)とはズレがあるのは当然で、多くの歴史学者が反応しているのは、シニフィエの方です。だから論者各自で定義が曖昧で、遅塚氏のように、自ら細かく定義しなくてはならない部分があるのです。長井氏が、彼らが「転回論からの批判に「正対していない」(『言語論的転回についての初歩的考察』p97)」と考えてしまうのは当然のことです。「シニフィアン」としての「言語論的転回」を問題にしているわけではなく、シニフィエの方が問題だからです。この部分について西洋史側で共有し易い暗黙知のような部分はあると思います。ところが、長井氏は、中国史研究者であるためにこのあたりの前提がないため、シニフィアンとしての「言語論的転回」の方を追及してゆくことになってしまい、ソシュールを批判していながら、ソシュールの提示した枠組みに乗って考えてしまっている、考察そのものが、シニフィアンに振り回される、寧ろソシュール理論が有効である、ということをその論証において体現してしまっているように見えます。
 なお、米国で「文化論的転回」として批判的受容された枠組みは、遅塚氏が限定した捉え方に近いのではないかと思います。

ところで、ソシュールは、言語の有契性(モノとの対応)を一切否定しているわけではありません。この議論はソシュール関連書籍では、かならず最初の方に登場するので著者も知っているはずです(『ソシュール』J.カラー著同時代ライブラリー、1992年、p24)。有契性は歴史的展開(言語の変化、印欧祖語からラテン語へ、ラテン語から現代フランス語など)の中で記号から抜け落ち、ほとんどの記号は無契的になってしまっていると考え、それまで古代語から現存語への音韻変化等の変遷(通時的分析)を行っていた従来の言語学に対して、共時的分析の重要性を提案し、通時的分析と共時的分析を切り離したのがソシュールの重要な業績のひとつですが、通時分析を無意味としたわけではありません。ソシュールの言語学は100年前のものなので、この内容を100%教条的に妄信している議論は最新の言語学の成果で更新すべきである、という指摘はもっともなことです。この点が、言語論的転回についての論説のもっとも有用な部分だと思うのですが、近年の言語学の成果の記載では、今度は針が逆に触れすぎて都合のよい部分だけ取り上げているので(一方都合のよくないことは、本文ではなく、註釈で取り上げている)、恣意性が顕著です。無契的な「ほとんどの記号」が記号全体の何%なのか*1、人間の成長や機能との関連についてどのような関係があるのかが、現在の認知言語学等で追及されている部分の筈です。幼児の言語理解の研究によれば、現在の認知心理学では以下のようなことがいえるそうです。

・(要約)言語を獲得する前の赤ん坊は、即物的な認識を持つ(モノと認識の間にほぼ対応がある、ほぼ有契的(有縁的)であり、他の動物とあまり変わらない。カテゴリー知覚に影響されない認識部分)が抽象的な概念(左右というような概念)は持たない。言語を身につけることにより、抽象的な概念が理解できるようになるが、言語の持つカテゴリー認識が優先されるようになり、言語を身につける前に有していた即物的な認識が失われることがある(具体的には、空間認識は、言語獲得後は言語の区分に従うようになり、言語獲得前とは違うカテゴライズに変化する等)。この、自然界では無関係なものの間に同一性を見出すカテゴライズ能力が、言語の大きな特徴のひとつである。個人の認識による揺れの無い基礎語(色の基本11色など)は、多くの言語で共通しているが、基礎語が該当しない言語も多い(今井むつみ『ことばと思考』岩波新書、2010年)。

一方長井氏は『言語論的転回についての初歩的考察』の結論部分で、仮説として以下のように記載しています。

「言語は、ヒトの知覚や認知などの脳の働きの優位性のもとで、それらと密接に連動しながら、相互補完的に機能することによって、我々が理解できるように、世界(外部世界)をなぞり、映し出し、反映するものである」(『言語論的転回についての初歩的考察』p103)

私には、今井氏の記載する内容とはだいぶ違う内容に思えます。今井氏の著作からは、基礎語や幼児の世界認識には、長井氏の仮説(といいながら結論となっている)が妥当しそうですが、何万年或いは何十万年も前から発達した言語は、基礎語以外の膨大な概念用語を作り出し、文字を得てから更にいっそう複雑な社会と概念用語を作り上げてきた人類の言語については、脳働きの優位はもちろん、「世界(外部世界)をなぞり、映し出し、反映するもの」という表現自体ができるとは、現段階では思えません(「世界(外部世界)」を、「社会的現実」に置き換えるのであれば、納得できます)。基礎語が各主要言語のどれでも概ね50%以上である、ということが数値的に判明した時には、長井氏の仮説を支持することになるような気がします。過去の歴史に登場する膨大な言葉ついて、基礎語をスクリーニングし、史料に登場する基礎語、或いは普遍的だと思われるカテゴリー語彙だけを研究するのが歴史学なのであれば、長井氏の結論(仮説)が妥当となるのではないかと思います。

ソシュールは有契性を重視せず、無契性をほとんどの記号だと考えた点で、極端にいってしまったところは確かにあると思います。しかし、有契性の領域が拡大するからといって、「社会的現実」の全てが有契記号から成り立つわけではありませんし、有契性/無契性のシェアのどちらが優位であるのかについては、現時点では希望的見解以上のことはいうことはできないと思います。仮に無契性のシェアが40%だったとしても、「社会的現実の一端は、無契的言語によって構成される」ということは言えますし、「社会的現実」というものが、全て本質主義に吸収されるとは思えません*2。

最近の認知言語学/進化言語学/認知心理学/発達心理学を学習する展望を与えてくれた点で、今回の論説は私にとっては有用でしたが、問題のある論説だと思いました。そもそも、構造主義が最近の認知言語学や認知心理学に相当する分野を持っていなかった、という認識は誤解で、ピアジェの構造主義は発達心理学の立場から、「言語は部分的に構造化された知能から生じるのだとしても、言語が知能を逆に構造化することも明らかである」(ピアジェ『構造主義』p97、原著1968年、邦訳1970年白水社)としていて、これは上記今井氏が紹介する認知心理学とつながりますし(ピアジェはチョムスキーの遺伝子説にも異論を唱えている)、1980年代の上野千鶴子氏も、『構造主義の冒険』(1985年、勁草書房)で、ピアジェの議論を発展させる「発生的構造主義」の構築の試みを提案していました*3。認知言語学や認知心理学では、メトニミー(換喩)やカテゴライズ化という概念が重要視されていますが、長井氏の二つの論説でも、転回論や構築論を、極論化(換喩化)し、同一化(カテゴライズ化)する手法が取られている点では、身を持って最新言語学の成果を示している、ともいえるのではないかと思います。

*1 色の基礎語(基礎色彩範疇)は11色であるのに対し、ユニクロのソックスの色の種類は50色、ブラウザで設定可能な色の種類は140色日本の伝統色は、465色で、どれも名称がついています。

*2  ポスト構造主義の言語論を批判し、デリダをソシュールから切り離して論じている論説として、神田順司著『言語哲学と歴史認識論 : 現代歴史ニヒリズム批判のために』(慶応義塾経済会、2015)は参考になりそうです。ソシュールの功績を言語学全体とするのではなく、「記号論的言語学の体系化」に限定しているところは、妥当な見解ではないかと思います(従って当該論説ではデリダが攻撃されている)。後半のフンボルト言語学の再評価は、主体と客体の相互作用と見なしている点でバーガーの知識社会学やブルデューの文化社会学と同系統の考え方ですし、上述の認知心理学の自然界(モノ)と言語の関係にも接続できるように思えます。後半の歴史研究における認識論も納得できるものです。

*3 それ故90年代の上野氏がどうして言語だけが社会を構築している、という歯切れ良すぎる言い方をする方向にいってしまったのか、ジェンダー論に押し流されてしまったという推測はできますが、これはこれで興味深いものがあります。


3.書評 遅塚忠躬『史学概論』(2016年)

3/4は『史学概論』の要約です。「ジャーゴンまみれで難解な転回論や物語り論が歴史学に及ぼす影響の内容と程度を理解するための(略)わかりやすい「とっかかり」を手に入れたといえる」としておおむね肯定的な評価をしています。最後の1/4で課題を整理し、その課題が、『言語論的転回についての初歩的考察』『社会構築主義についての初歩的考察』と展開し、結局遅塚氏の折衷案も否定する方向となっています。


4.社会構築主義について

個人的に、広い意味での、「社会的現実は構成/構築されている」という意味ではなく、ジェンダー論などの一部の論者の社会構築主義/社会構成主義は、「社会的現実」を解明する学問としては、少し違う方向にいってしまっている部分はあるのではないかと思っています。以前上野千鶴子編『構築主義とは何か』を読んだ時は、基本的に、マイノリティ(社会的弱者という意味で女性も入る)にとっての「社会的現実」と、彼らに対するマジョリティーの「社会的現実」が違うということを整理したり、臨床医学という予想していなかった領域に適用されていることを知ることができた、という程度の感想しか持ちませんでした(言い訳をすると、日本で上野千鶴子氏が社会構築主義と慰安婦問題を結び付ける論陣を張っていた1996-8年は、日本にいなかったので、状況がよくわかっておりませんでした)。現実のアイデンティティ・ポリティクスを分析する方法論ではなく、アイデンティティ・ポリティクスの思想基盤となり、イデオロギー化している側面は、日本だけではなく、本場の米国でも確かにあるように思えます。

しかし、長井氏の論説では、ほとんど上野千鶴子氏の構築主義に関する主張が社会構築主義全体だと非難されており、他の論者の構築主義の捕らえ方や、「社会的現実」というものを”実在”として研究対象とする社会学の分野や科学哲学自体が疑似科学であるかのような印象を与える論述となっているため、この論説はかなり問題があると思っています。しかし、それ以上に問題を感じるのは長井氏の論法です。言語論的転回に関する論説の方も論法に疑問を感じる部分がありましたが、言語学で普遍派と決定論(相対論)派の対立があることは、いくつか関連書籍を読めばわかることですからあまり問題ではないように思っているのですが、こちらの論説は、わら人形論法や三段論法、一部を全体であるように記載する換喩論法やレトリックが多く、正直読むに耐えない部分が多々ありました(今回上野千鶴子編『構築主義とは何か』を読み返したのですが、長井氏の指摘に該当する部分は上野氏の一部の文言だけで、この本の他の部分は、長井氏の論法、「「穏健な」主張は」「社会構成主義ではない」(『社会構成主義についての初歩的考察』p105)を適用すると、構築主義ではないことになってしまう、そういう論法を各所でとっています)。

「社会的現実」の実在性や、主観-客観、観念と唯物の関係の研究の系譜は、長井氏が上野著作から得た、

「ソシュール言語学⇒構造主義言語学⇒構造主義⇒ポスト構造主義⇒転回論⇒社会構成主義(=構築主義)」(『社会構築主義についての初歩的考察』p91)

だけではありません。上記単線的な系譜を真に受けてしまう読者が発生することを懸念するため、ここでは、多様な系譜を記載したいと思います。ポスト構造主義や言語論的転回にまつわる系譜はソシュールだけではありません。また、社会構築主義と呼ばれる分野だけが「社会的現実」の構築性について研究しているわけではなく、そもそも心理学/言語学/社会学が成立した理由自体が、「社会的現実」の研究であったことは、冒頭で記載した通りです。

社会学

1>フッサール現象学⇒アルフレッド・シュッツ(現象学的社会学)⇒ピーター・バーガー⇒上野千鶴子(上野が社会問題・政治問題に介入する前の、まだ基礎的な学問をやっていた時代の書籍『構造主義の冒険』(1985年)では、ソシュール経路、フッサール経路両方が言及されている。ただし、転回論の言及はなく、上野氏はピアジェの議論をもとに脳の話や生理学レベルの話も各所で言及しています。フッサールとソシュールの間の関係は確認できていませんが、シュッツとバーガーにはウェーバーが入っており、バーガーには更にデュルケムやミードも入っています。)

2>ジンメル、ジョージ・ハーバート・ミード⇒シンボリック相互作用論⇒キツセ、スペクター、バーガー
3>デュルケム⇒ラドクリフ・ブラウン⇒パーソンズ⇒バーガー
4>文化社会学(ブルデュー)⇒アナール学派・新しい文化史(文化論的転回)⇒福井憲彦

人類学

1>ウェーバー⇒パーソンズ、シュッツ⇒クリフォード・ギアツ⇒文化論的転回
2>ディルタイ⇒プラグマティズム⇒クリフォード・ギアツ
3>ウラジーミル・プロップ⇒ヴィクター・ターナー⇒文化論的転回

物語論

フッサール⇒メルロ・ポンティ⇒アーサー・ダントー⇒野家啓一
バフチン、トドロフ⇒リクール、ウンベルト・エーコ
カール・マンハイム⇒ヘイドン・ホワイト

言語哲学・哲学

分析哲学(ヴィトゲンシュタイン、フレーゲ)⇒リチャード・ローティ(用語「言語論的転回」は厳密にはこのルート)、野家啓一
サピアとウォーフ⇒言語相対主義/言語決定論
ニーチェ、ハイデガー⇒フーコー⇒ジェンダー研究⇒社会構築主義

長井氏の批判する「社会構築主義」の系譜だけでもソシュール以外の多くの系譜がありますす。私は個人的には、日本の「いわゆる言語論的転回」の潮流のひとつである二宮宏之氏への系譜についても、もしかしたらブルデューの系譜の方が大きいのではないかとの感触を持っています。この点は調べてみたいと思っています(佐藤成基『文化社会学の課題 -文化の社会理論へ向けて-』(社会志林   56(4) 93-126、2010年3月)では、20世紀西洋思想全体の広汎な動き」(p101)として文化社会学及び文化論的転回という用語を用いており、その延長線上で主客問題のひとつの方法として認知科学への期待が述べられています)。

ソシュールの言語論がなければ、というを想定してみることもできますが、もともと、ソシュールの理論を受け入れるような「社会的現実」に関する構築論の素地がさまざまな人文科学・社会科学で芽生えてたわけなので、ソシュールがいなくても『社会的現実」を巡る研究はそれほど大差はないように思います。デリダやバルトはソシュールに直結しているようなので、デリダやバルト重視の人々はソシュールを起源に位置づけるのかも知れませんが、社会学においては、起源はフッサール、デュルケーム、ウェーバーの方が重要です(そもそも、本質主義VS構築主義というのは、古典古代以来の西洋思想の一大潮流の上に置くことができ、古くはプラトン/アリストテレス、中世は実在論/唯名論、近代は観念論/唯物論の二項対立と接続する面があります。こういう問題だから根が深く、一時的に「科学」の成果を利用して双方の極論を蛇行するという現象が発生してしまっているわけです。

著者が考えるように、ソシュールを起源と位置づければ、ソシュールの言語論が既に時代遅れ・疑似科学だと指摘して最新言語学(認知言語学)を紹介することで、社会構築論や言語論的転回は否定できる、という考えになるのかも知れませんが、社会学においては、ソシュールの影響を受ける以前の(ソシュールとは同時代人の)フッサール、デュルケーム、ウェーバー以降の潮流なので、仮にソシュールを否定して、ソーカル事件と結びつけることで先鋭化した社会構築主義を否定することに成功したとしても、「社会的現実」の実在性の分析や、その多元性、主客分析の、各種学問的研究まではひっくり返せないものと思います。

そうして、過去の歴史においても、少なくとも文字の活用や各種カテゴライズ化能力の発達により飛躍的に概念思考の発達した人間の社会においては、単純に自然を模写したものではない、多元的な「社会的現実」が構築されていたと考えられ、史料からその「現実」具合を復元することは簡単ではない、という社会諸科学からの歴史学への指摘は、続くものと思います。

※長井氏は、本論説各所で、構築主義が「正しさ」を主張し、「不適切なもの」を排除する、と、p93、p106、p108、p109で繰り返していますが、出典は記載されていません。ここは出典をちゃんと書くべきだったと思います。上野千鶴子編『構築主義とは何か』やガーゲン『社会構成主義とは何か』ではそのような記載は見当たりませんし(私の見落としかも知れませんが)、「ふたつの「現実」の間の落差がどれほど大きくても、どちらか一方が正しく、他方がまちがっている、というわけではない」(『ナショナリズムとジェンダー』(2012)、p177)との上野の主張や、複数の社会的現実を認める構築主義の主張に馴染まないように思えます。


追記1:2019年11月1日 ver1.1

宋代経済史研究者である長井千秋氏の言語論的転回研究第四弾が今年3月に発表されているのを見つけました。東方書店のブログ(こちら)には、以下のタイトルとして書かれています。

「ポストモダンの言語観と歴史学――言語論的展開の根拠としての「ソシュール言語学」――(長井千秋)唐宋変革研究通訊第10輯 出版社:唐宋変革研究会 出版年:2019年03月151~182ページ」

言語論的転回が、言語論的展開、と書かれてしまっていて、恐らくこのブログ記事が記載されたであろう2019年2月か3月以降、7,8か月間誰もこの点を指摘して修正していない、という事実が、いかに中国史学界隈では、この手の議論が縁遠いものであるかを示しているように思えます。(CiNiiのこちらは、ちゃんとしている)。

私はもう彼の議論は当面読むつもりはありませんが、本気でソシュールの議論をするなら、言語学か認知科学誌、または哲学誌に掲載すべきでしょう。『唐宋変革研究通訊』に査読なしでこっそり掲載しているところが、このあたりの議論に詳しくない中国史研究者界隈を守ろう、というだけの姿勢にしか見えません。まあ、この手の議論が、1980年代では西洋史界隈でもこのように見られていた、という昔の状況を知るという点では有用です(昔のイデオロギーに満ちた論文というものの雰囲気を知るにも彼の論説は有用かも知れない)。

彼の論法でまず目につくのは、ソシュールー構造主義ーポスト構造主義ーデリダ、というような極めて単純化された系譜での認識でしょうか。こういう単純化された言説が登場したのは、寧ろだいぶ後(21世紀)に入ってからで、内田樹 とか上野千鶴子が『寝ながら学べる構造主義』『構築主義とはなにか』とかで初心者向けに極度に単純化した言説であって、相当実情と異なる、という点は上述した通りです。

彼がどんな人物か知りませんが、彼のような議論をしている人を見ると、26年前、香港九龍の啓徳空港の出発フロアの売店で、日本語がわからず困惑するショップの店員に向かって

「サケ!!サケだ!!!サーケ!なんでわからないんだ!!!!サ・ケ、サケだよサーケ!!サケが欲しいといってるんだ!!!」

日本語だけで顔を真っ赤にして手を振りかざし延々と(恐らく10分以上続いていたかも知れない。売り場のその一角が凍り付いていたのでその時はものすごく長く感じましたが、実際はもっと短かった可能性もあります)怒鳴り散らして店中の注目を浴びていた60歳代くらいのオジサンを思い出す次第です。まさに漫画に出てくるゆでだこに見えました。今だったら即スマホ投稿案件です。このように書くと冷笑的に傍観していた、と批判されるかもしれませんが、あまりの権幕に怖くて誰も口出しできませんでした。ああいう、日本語だけではなく、日本の常識や日本の習慣、理屈が普遍的だと思い込んでいる横柄な態度をとる人が、きっと大戦中の中国や東アジアの進駐軍にもたくさんいて、そしてそれがおかしいとわかりながら止められなかった多くの日本人もいたのだろう、と思うわけです。

出発フロアということは、この人は、既に旅行してきた後なのであるから、その間まったく広東語の酒、或いは香港の標準語である英語の酒という用語を学習しなかった、ということです。長井氏がこの人のようだ、という意味ではなく、長井氏の議論が正しいならば、すなわちシニフィアンとシニフィエの間に本質的なつながりがあるのであれば、きっと「サケ」でも通じたはず。という意味で、この事例を連想してしまうわけです。

AIの深層学習でもシニフィエとシニフィアンの問題があったりしてコンピュータと認知の問題は、まだまだ今後の研究に期待できそうです。(長井氏が結論ありきで論じているように)人間の遺伝子にシニフィアンの本質的な何かが含まれているのであれば、シンボルグラウンディング問題ももっと簡単にけりがつくのではないかと思います。漢字は表意文字ですから、表意文字の中にモノ自体との関連が埋め込まれている、と考えることもでき、これが東アジア人の言語論と言語認識論に影響している可能性はあるわけなのですが、そうした方向性の議論をしている人もどこかにいるかも知れないので、探してみたいと思います。表意文字であっても有契性がちょっと増えるだけで、シニフィアン/シニフィエという言語構造論はひっくり返すことはできないと思うわけですが、、、、
ところで、以下の書籍も見つけました。

Linguistic Turns, 1890-1950: Writing on Language As Social Theory』 ハードカバー – 2019/6/4 Ken Hirschkop (著)
面白そうです。

追記2:2021年9月15日 ver1.2
吉田敬『社会科学の哲学入門』p62によれば、長井千秋氏が大きく依拠している進化心理学のスティーヴン・ピンカー氏の議論は、進化心理学が社会科学の発展に貢献してきたことを認めつつ、その上で進化心理学の社会科学批判が、「これがどれほど粗雑な社会科学理解であるかは一目瞭然だろう。ここから明らかなように、進化心理学者の社会科学の理解には非常に問題があるため、その批判をそのまま鵜呑みにすることはできない」と批判しています。

追記3:2024年9月9日 ver1.3
長井千秋氏は2020年にも方法論関連論文を発表しています(こちら)。
学術論文(研究ノート[単]) 「歴史学と反証主義についての覚書――遅塚忠躬の「経験科学としての歴史学」論をめぐって――」 『唐宋変革研究通訊』第11集 長井 千秋 全32頁、121-152頁 2020年03月査読無

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