言語論的転回に対する反応が日本で鈍かった理由は、戦後の日本の史学界隈では、新カント派が受容されていた下地があったため、との小田中直樹氏(こちら)や岸本美緒氏の指摘(こちら)を読んだことが、最近ウェーバー受容史関連書籍を読んでいる背景です(こちらの記事の続編という位置づけです)。
以下読んだ順番に記載してゆきます。
■山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(1997年)
小田中直樹氏は、日本の歴史学界でいわゆる言語論的転回にまつわる議論の受容が鈍いのは、三木清をはじめとする新カント派が20世紀中盤日本では受容されていて、ウェーバーも新カント派の系列にあるためという仮説を提出しています。私はそれとととも、ウェーバーの日本での受容に大いに影響のあった大塚史学に問題があるのではないか、と思っています。以前こちらの記事で記載しましたように、大塚史学は、合理精神により、過去や異文化は客観的に認識できる、と考えているように見えるからです(大塚史学は非常に価値判断入り込み過ぎの学説に見えます)。しかし、実のところ私のウェーバー理解は違っていて、ウェーバーという人は、ニーチェやバタイユの系譜に連なる側面がある人だと思っていました。実際、ウェーバー本人の方法論に関する著作や、哲学・社会学側の本を参照していると、ウェーバーは実在論的な意味での客観性に極めて懐疑的で、決して合理性=実在ととらえる人には見えないからです。デュルケムの方がよっぽど「客観的」です。35年くらい前は、日本の歴史学関連のウェーバー著作といえば、どこの方向にいっても大塚史学一派にぶつかる状況でしたから、大塚史学が合理的に理解している限りこの点は突破できません。この社会学側と(日本の)歴史学側のウェーバー認識の断裂は私の気のせいなのか、そうではないのか確認すべくいくつか書籍を読んでみました。大塚史学が過去の話となった最近では、少し距離を置いた認識となっているかも知れないからです。まずは以前購入したウェーバーに関する著作が手元にあったので本書山之内靖『マックス・ウェーバー入門』を読んでみました。
山之内靖氏の歴史学関連の著書を読んだことがないため、彼が大塚史学的理解にある人なのかどうかは不明ですが、東大経済学部卒で近代研究をしているので、大塚史学に近い人である可能性があります。その著者がウェーバーをニーチェやフーコーの系譜で論じているのに驚きました(たぶんそういう内容だったので購入したのではないかと思うのですが、今となっては不明です。アマゾンで検索したところ、2005年に購入していると表示されました)。とはいえ、本書はニーチェやフーコーとの関連の記述は少なく、普通にウェーバーの紹介本として読めます。ウェーバーの日本語翻訳文献は、ウェーバーの著作は膨大な邦訳があるのですが、あちこちの論集に分散していてわかりずらい(生前のドイツですでにそんな感じな)ので、1997年時点のものとはいえ巻末の文献一覧は非常に有用です(Wikipediaの文献一覧はほとんど役に立たない)。同じ著者の著作に1993年に既に『ニーチェとヴェーバー』という著作が登場していたのでとりあえず購入しました。ただし、山之内氏の議論は少々強引的との指摘もあるようです。同じくニーチェとウェーバーを論じている『マックス・ウェーバーと同時代人たち―ドラマとしての思想史』(1993年)、『成熟と近代―ニーチェ・ウェーバー・フーコーの系譜学』デイヴィット-オーウェン著、訳2002年原著1994年)というものあり、一応購入しましたが、まだ読んではいません。ニーチェ・ウェーバー・フーコー系譜ブームは、行き過ぎた部分もあり批判も多かったようですが、いずれにせよニーチェ・ウェーバーの系譜がかなり公正明大に認知されるようになったのは嬉しい限りです。
■仲正 昌樹『マックス・ウェーバーを読む』講談社(2014年)
近年の受容ぶりがわかるかも、と思って読みましたが、非常にオーソドックスな、主要著作入門書でした。1章『職業としての政治』、2章『『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』『社会学の根本概念』、3章『プロテスタンティズムと資本主義の精神』、4章『職業としての学問』。仲正氏の書籍を読むのははじめてだったのですが、原理研出身の方ということで偏見がありましたので、拍子抜けでした。80年代中盤、原理研の洗脳問題が猖獗を極めていた当時に学生を送った者としては、原理研というと危険なカルト組織という偏見があるためです。正直読後もまだ気を抜けないと思っています。本書は、ウェーバー著作の代表作の入門書としては良書だと思います。とはいえ、最後の神々の争いの部分は踏み込みがしりきれとんぼでしたし、特に最新の受容状況がわかる本でもありませんでした。巻末に文献一覧がないのが残念です。
受容史本としては以下の二冊が有用でした。特に前者は90年代までとはいえ、決定版だと思います。
マックス・ウェーバーの日本―― 受容史の研究 1905-1995 単行本 – 2013/1/19
ヴェーバー受容と文化のトポロギー 単行本 – 1990/6 内田 芳明 (著)
■『マックス・ウェーバーの日本―― 受容史の研究 1905-1995』(ヴォルフガング・シュヴェントカー 、1998年、訳2013年)みすず書房
読んだ順序は逆ですが、こちらの方が紹介しやすいため、こちらから先にいきます。日本でのウェーバー・フィーバーぶりに驚いたドイツ人が、教授資格論文のテーマを日本におけるウェーバー受容史の研究とし、来日して日本語を学び、日本語文献を読みこなせるようになって書いたものの日本語訳です。著者はそのまま日本にいついて、現在大阪大学教授とのことです。全456頁(本文約300頁)ですが、一枚の文字数が多いため、重量級の学術書籍です。日本受容史の決定版でしょう。この本は、定価8100円と安くはありませんが買いの本です。いずれ絶版となって高額となることは間違いないので、値ごろ感のあるうちに購入しておいた方が良い著作です。今年読んだ読んベスト1になりそうです。
原著はドイツ語で、20世紀の日本の歴史に詳しくないドイツ人の読者に向けて書かれているため、逆に非常に丁寧でわかりやすい内容となっています。アマゾンの商品紹介にある以下の記載は、本書の裏表紙に記載されています。
「1984年、ドイツのJ.C.B.Mohr社から『マックス・ウェーバー全集』の最初の数巻が刊行されたとき、出版部、編集者、スタッフたちが驚いたのは、出版部数の三分の二がドイツでもなく、ヨーロッパでもアメリカでもなく、日本で売れたという事実だった。このような瞠目すべき事態を生んだ日本の社会科学の事情、ウェーバーと日本との親和性とは、いったい何なのか」
更に、序文にも以下の記載があります。
xii「彼はその時私に、日本でマックス・ウェーバー全集に示された驚くべき反響について語ってくれた。どのような理由で、そしていかにして日本の学問はウェーバーの著作を受け入れてきたのか。これについて一冊の本を書くという計画がこうして出来上がった」
内田芳明著『ウェーバー受容と文化のトポロギー』(1990年)と比べるとわかりやすいのですが、内田著が日本人向けで、ある程度研究者の名前や位置づけを知っている前提で書かれているのに対して、本書『マックス・ウェーバーの日本』は、そもそも読者のドイツ人は、登場する日本人学者のほとんど全員を知らないことから、主要な学者に関しては、業績が数行から数ページにわたって記載されています。このため、20世紀の日本のウェーバ研究史に詳しくない日本の読者にとっても、非常に詳細で分かりやすい内容となっています。登場する学者たちも、伝記的記載はあるものの、物語列伝風ではなく、淡々と業績や論文の内容が紹介されてゆきます。そうして全体としては、明治の開国期からバブル後の時代までの日本史ともなっています。
内田本は脚注含めて約280頁、本書の本文は約300頁ですが、一ページに含まれる文字数が違います。『マックス・ウェーバーの日本』は、1ページ50字X20行=約1000文字で300頁=約30万字。『ウェーバー受容と文化のトポロギー』の方は43文字x17行で731文字、x278頁で約20万字です。本文だけで1.5倍、脚注含めれば約2倍近くなります。
『ウェーバー受容と文化のトポロギー』には参考文献一覧もありません。『マックス・ウェーバーの日本』は膨大な参考文献一覧があるだけではなく、(訳者が追加した)2012年までの、ウェーバーの日本語翻訳著書の出版年次別一覧表があります。本書は資料集としても有用です。
学生時代、うすうす、もしかしてウェーバーって日本だけとびぬけて人気があるだけで、欧米ではそれほどではないのでは?と思っていたのですが、違ったら恥ずかしいし、それ以上にかみつかれそうなので今ままで口にできなかったのですが(著者も「ウェーバー村」と端的に記載している)、過去については、その可能性はありそうな気がします。
学生時代、日本では明治以来の努力と経済力のおかげで英米仏独の主要な学問文献は翻訳されていたため、これら欧米の国々の間でも同じレベルで当然翻訳され、或いは欧米はそれぞれの言葉を第二語学で学習するのが普通だから、学者であれば、普通に英仏独語ができるのだろう、そして、基本主要文献は、英米仏独で共通に読まれているのだろう、と、思い込んでいたのですが、どうやら違っていた、ということを最近認識するようになりました(とはいえ、21世紀となって主要文献は英語に翻訳・集約されるようになってきているのは確かですが、、、)。
縦の文字を横にする、と揶揄されてきた日本の西洋学も、日本的に受容され、それなりに独自の発展を遂げてきた点は、胸をはれるところなのではないかと思います。とはいえ、本書の著者は、バブルのピーク時に来日したわけで、最盛期日本の勢いに圧倒されて、うっかり日本に居ついてしまった、という面もあるような気がします。当時の日本の勢いを知る、という意味でも、本書は20世紀日本史の本としても有用だと思う次第です。ウェーバー受容100年間は、日本社会の発展といとなみと強く結びついていて、読後不思議な感動がありました。
■『ヴェーバー受容と文化のトポロギー 』 1990/6 内田 芳明著、リブロポート
本書は以下の三部構成です。
第一部 文化問題としてのヴェーバー受容―周辺文化のトポロギー
序論 ヴェーバー受容と周辺文化のトポロギー
第一章 戦前ドイツにおけるヴェーバー受容
第二章 アメリカにおけるヴェーバー受容
第三章 日本におけるヴェーバー受容とマルクス主義
第一章 戦前ドイツにおけるヴェーバー受容
第二章 アメリカにおけるヴェーバー受容
第三章 日本におけるヴェーバー受容とマルクス主義
第二部 本社会諸科学におけるマックス・ヴェーバー―日本におけるヴェーバー受容
第一章 戦前 1905年‐1945年
第二章 戦後 1946年‐1978年
第二章 戦後 1946年‐1978年
第三部 ヴェーバー「近代化」論の光と影―ヴェーバー研究の現在
第二部が、1981年にドイツ語に翻訳され、論文誌に掲載されたそうです。『マックス・ウェーバーの日本』の著者ウォルフガング・シュヴェントカーも読んでいるはずです。わたしも最初は安く済まそうと、こちらを購入して読んだのですが、結局『マックス・ウェーバーの日本』も読むことになりました。本書は日本人向けで、ある程度研究者の名前や位置づけを知っている前提で書かれていて、また、登場する研究者の名前が何名も羅列されているだけの部分も多く、日本における受容史の概説書という感じです。『マックス・ウェーバーの日本』の日本を底本として利用し、その補足本として使うとちょうど良いという気がします。
結局のところ、日本の歴史学界のウェーバー受容は、科学的歴史学を追究したマルクス主義を基盤に行われたもので、マルクス or ウェーバー論者であれ、マルクス and ウェーバー論者(大塚史学等)であれ、マルクス主義と同じ枠組みの中でウェーバー方法論を捉えていた限り、その受容は実在論な範囲を出ることはできなかった、ということなのだろうと考えて良いものと思います。日本の各マルクス系学者の受容姿勢がp137に一覧表としてまとめられていて、この表は非常に有用でした。
■生誕150周年のアクチュアリティ : 2014年のドイツにおけるマックス・ウェーバー研究の動向(What is the Actuality in 150th Anniversary? :Research Trends on Max Weber in the Year 2014 in Germany)(PDF)
比較的最新のマックス・ウェーバー研究状況の論説として有用でした。グローバル化の時代の各国でのウェーバー受容や合理的選択理論での議論、ウェーバーのパーソナリティ関連の動向が記載されています。
『マックス・ウェーバーの日本』や内田本の最後の方では、ニーチェとの関連研究が勃興し始めている点の指摘と、それに対する批判が記載されています。ニーチェとの関連研究は20世紀末に流行し、その後は、ウェーバーの私生活やパーソナリティの研究の流行に移行したようで、このPDFでも現在でもウェーバーのパーソナリティ研究の大著の刊行が紹介されています。恐らくこのあたりは、日本では、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊 (MINERVA人文・社会科学叢書)』と、その後の羽入VS折原浩論争のあたりとなって表れた現象に相当するのではないかと思われます。このあたりの研究史に関する文献はまだ読めていないのですが、恐らくこの流行も2010年頃には低下して現在若干残っている、という程度の話が、「生誕150周年のアクチュアリティ」で言及されている話なのではないか、という気がします。
羽入氏には悪いのですが、膨大な著作を残した歴史学者(に限らずどの学者でも)は、結構いい加減なところも多いのが普通なので(それは社会学の大澤真幸氏も、『漢帝国』の著者渡邉義浩氏や、大御所宮崎一定氏とかも)、ウェーバーの研究ははっきりいって現在では方法論だけが重要なのであって、ウェーバーの個別の歴史学研究については、残念ながら今となっては当時の研究度合と事例を知る文献としての価値くらいしかない過去の遺物ということで、あまりウェーバーを責めても仕方がないと思う次第です。
ところで、個人にプライバシーに踏み込み過ぎる点が気の毒ではあっても、ウェーバーのパーソナリティ研究は必要だと思っています。岸本美緒氏は、「中国史研究におけるアクチュアリティとリアリティ」『歴史学のアクチュアリティ』(2013年)所収の論説p11で、あまりにも自明性を疑えと主張する構築主義を批判して、「自明性の檻を徹底的に打ち壊して人間精神を解放するといったことを抽象的に主張することは可能であろうが、そのような議論を展開する論者が特に何も支障なく日常生活を歩むことができているとすれば、それは、彼(彼女)が学問と生活を切り離し、生活面では自然な自明性の世界に安住しているからにほかならない」と述べていますが、私は、あまりにも生真面目に深く考えてしまった事例やそうした状況に追い込まれた事例が、ニーチェやウェーバーの病歴や、フーコーやバタイユの性的嗜好に表出しているのではないか、と思っています。こういう世界苦みたいなものを一人で背負って個人一人が何もかも疑う、というのは、社会から乖離し精神を病む可能性があるため、個人で自明性を疑うのはある一つか数個の限られたテーマだけでよいと思っています。これが非常に同調性の高い全体主義的な社会であれば厳しいでしょうが、現代の先進国は多かれ少なかれ多様性のある社会であり、同じ国民でも企業や業界やつきあうグループが違うだけでかなり異なった常識の共同体に属しています。異文化交流は国内でも行えます。ましてや国外の研究を行い、対象国と関わっている研究者であれば、ニーチェやウェーバーのような精神苦や神経苦を負うこともなく、比較的普通に過ごしていてもいくつかの自明性を疑うケースは出てくる筈です。これが研究者集団全体となれば、大きな成果が出てくるものと思うわけです(当然のことながら、何もかも疑うわけではないため、疑いきれない部分については他の研究者から批判される原理となるわけですが、一個人であらゆるものを疑おうとして精神を病んだりするよりは、ある程度にとどめておいて、他の部分は他者からの相互批判に頼る方がよほど健全なありようだと思います)。
読んだわけではありませんが、以下の文献も見つけました。
現代東アジア問題とマックス・ヴェーバー : Rentenkapitalismusとrent-seeking capitalismの連続性に即して(PDF)
日本社会学におけるヴェーバー社会学の受容(PDF)
『マックス・ヴェーバー研究の現在-資本主義・民主主義・福祉国家の変容の中で』(2016年)
■小田中直樹『日本の個人主義』ちくま新書、2006年
彼が大塚史学をどのように捉えているのか、について興味があったので読みました。
大塚久雄の個人主義の思想について21世紀の視点から論じている書籍。小田中直樹氏は、東大経済学部出の経済史研究者なので、大塚久雄の弟子の弟子くらいの世代です。大塚史学の系譜の人が大塚久雄をどのように捉えているのかに興味があり、読みました。大塚史学についての史学方法論的な著者の所感は、『歴史学のアポリア』の方にあるということがわかっただけでした。どうも小田中直樹氏には、どこか歯切れが悪いところがあるように思えます。誠実だということはわかりますが、、、、
□まとめ
日本の歴史学隈での受容が、実在論的なウェーバーとなってしまっている点については、マルクス主義との関連で理解できました。
言語論的転回/構築主義の系譜のうちのひとつについて、以下の系譜が確認できたものと思います。
ドイツ 新カント派/ニーチェ → ウェーバー → ポール・ヴェーヌ →アナール派(ただしこのルートからの影響度については未確認)
ウェーバー → パーソンズ → クリフォード・ギアツ → 文化論的転回 →アナール派
ウェーバー → パーソンズ → クリフォード・ギアツ → 文化論的転回 →アナール派
私はサイト『古代世界の午後』のプロフィール欄の「影響を受けた学者・作家」という項目(こちら)に、
「間主観性の社会学、知識社会学、ピーター・バーガー、デュルケム、ニーチェ、ドストエフスキー、バタイユ、ロ バー ト・ニスベット「歴史とメタファー」、エーコ「薔薇の名前」など」
と書いているのですが、本当はウェーバーも入れたかったのです。しかし通常ウェーバーは大塚史学的認識に回収されてしまい、誤解を招いてしまいそうであることと(そっちのウェーバーではないので)、間主観性の社会学・知識社会学・ピーター・バーガー のあたりにウェーバー成分が含まれていることは見る人が見ればわかることですし、ニーチェにもウェーバー成分が入っていると(自分的には感じていたと)いうことでウェーバーの名前は記載しませんでした。20世紀末に起こったニーチェとウェーバーの関連研究も、現在では過大視してはならない、という方向性のようですが、そうはいってもこの系譜があることは紛れもない事実なのではないかと思います。今回一連の著作を読んで、それが確認できて満足です。
結局のところ、戦後歴史学における新カント派の議論は、認識の懐疑を強くアピールしたものの、三木清レベルにとどまり、ニーチェレベルに至らなかった、(大塚史学に見られるように)没価値になっている(自身の営為が科学である)という思い込みを歴史研究者に与える結果を招いていた、ウェーバーのニーチェ的側面は閑却されて受容された、というのが現在の私の理解です。没価値であるために努力はした、しかし無意識の次元や、或いは虚偽意識により非没価値的な層の自覚に乏しく、或いは科学ではないものまで科学だと主張した(その背景には個人の感情がある)、そこを結局ポストモダンに指摘されることになった、ということです。このことは、岸本美緒氏が、岸本美緒「現代歴史学と「伝統社会」形成論」『歴史学研究』増刊号 2000年度大会報告 2000年10月 にて以下のように書いていることと同じです。
「当時歴史学に志す普通の学生でも、「存在被拘束性」への認識や素朴客観主義への懐疑を、一応の常識として身につけていたように思われる」
「批判を通じて、人々の認識に、より普遍的・客観的な確実な基礎づけを与えようとする努力がなされていた」が、「その普遍性・客観性指向こそが新たなドグマを絶えず生み出して行ったという側面、そこが現在問題になっているのだろう」p13
ウェーバー受容史の本を読んでも、新カント派やウェーバーの客観性認識に関する懐疑の段階を経て客観的ウェーバー方法論に進んだ歴史学者の事例は明確には記載されてはいなかったのですが、マルクス主義が形成した「科学的歴史学」という枠組みでの範囲内で日本のウェーバー受容がなされたことから、岸本氏が指摘する内容がウェーバー受容にも該当していたと、一応は結論づけて良いのではないかと思っています。
日本におけるウェーバーの受容は、大いなる誤解とともに受容されたわけですが、それ一辺倒で進んだわけではなく、戦後米国からパーソンズ流の近代化論者のウェーバーとして実質リニューアルウェーバーが受容され、更にその後比較文明論にも影響した比較文化史学の先駆者・理論家としてリバイバルし、最後に当初の(ポストモダンな)ウェーバー方法論の中核が紹介された(受容とまではいっていないかも知れない)というように、実態は装いを変えて何度かリニューアル・ウェーバーの流行が繰り返された、というのが、今の段階の私のウェーバー受容に関する理解となりました。
来年はマックス・ウェーバー没後100周年。関連出版が多数出てくるのか、もはやウェーバーは過去の人として盛り上がらずに終わるのか、興味深いものがあります
※最近因果推論に興味があるため、最近でた『社会科学と因果分析-ウェーバーの方法論から知の現在へ』佐藤俊樹、2019年 を思わず買ってしまいました。この本は、ウェーバー本として購入したわけではないものの、ウェーバーの名前が入っているので少し読んでみたところ、まったく歯がたたないことがわかりましたが、方法論のウェーバーは、まだまだ影響を与え続けているのだということはわかりました。
‐メモ
『思想』 1992年 5月 No.8158 マックス-ヴェーバー 特集
2020年5月 没後100周年出版 野口雅弘『マックス・ウェーバー-近代と格闘した思想家』今野元『マックス・ヴェーバー――主体的人間の悲喜劇 』の感想・紹介
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