主観と客観と実在 ~多様な客観の時代における主観と客観のリテラシー

主観/主観的/主観性と客観/客観的/客観性という用語の示す範囲は広いため、用語が厳密に、どのレベルの客観/主観なのかを巡って混乱があるように思えます。常識的な内容なので、いまさらこんな内容のドキュメントを書く必要もないのでは、と思っておりましたが、各所で用語を混乱しているまま用いている事例がいつまでも減らないため、こんな記事を書いた次第です(この記事に辿り着いた人は、そもそもこのような内容は自明の方々で、本当に必要であろう人々には読まれないのではないかと推測しています)。

もっとも素朴な捉え方は、「主観とは個人的な見方、客観とは誰が見ても同じ」「主観とは人間の心理に依存、客観とは物質に依存」というところです。しかし、簡単な辞書によっても(こちらこちら)、客観的とは、「第三者の立場でものを見たり考えたりする」とあります。しかし、「誰が見ても」という場合、「誰」とは、いったい何人の人を想定しているのでしょうか?大半の人?多くの人?人類全部?第三者でも同じです。AさんとBさんの意見が対立したとします。双方お互いを主観的と非難し、自分の見方が客観的だと言い張っています。そこで第三者なら客観的判断ができるだろうということで意見を聞くことにしたのですが、その人はAさんに同意しました。一方Bさんが連れてきた第三者はBさんに同意しました。ーー一体どこまでが「客観的」なのでしょうか?

このように、個人の意見だけを主観的で、それ以外を「客観」とした場合でも、その「客観」が必ずしも「誰が見ても同じ」ということにはなりません。「客観」には幅があるのです。一方で、こんなケースもありえます。Aさんは、学校のクラスで同級生のゲーム機を盗んだとされました。目撃されたわけではないのですが、状況証拠と証人がいます。実はこの証人は嘘をついています。しかし、Aさん以外のクラス全員と先生までもがAさんを犯人だと決めつけてしまいました。Aさんは犯人ではないのですが、「客観的」に犯人とされてしまいました。

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こうした混乱を収めるため、物質的なものや科学的に測定されるものだけを「客観的」だとみなす考えが17世紀頃の西欧から発達しました。科学的なものや物質的なものであれば、「客観的」で、人間の意見(解釈や価値観)に依存するものは全て「主観的なもの」と見なす考え方です。この考え方は一見、最も、もっともらしく見えます。しかしこの考え方にも落とし穴があります。この点が20世紀中盤から批判されるようになりました。これについては後述します。

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さしあたり、人類全員ではなくても、「大規模な社会での共同主観」や「物質的/科学的」なものは客観的だと考えてまわっているのが現代社会です。しかし、数名であれ数億人であれ、ある程度の人の間で認識が一致すれば、それはある程度の客観性を持ちます。これを社会学や哲学・心理学などでは「間主観」とか「共同主観」といいます。しかし日常会話ではこんな用語は使わず、間主観の部分は、人によっては「主観」といったり、「客観」という人もいたりして混乱の原因となるわけです。

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17世紀以後の西欧では、科学的/物質的なものを「客観」だと定義するようになりましたが、物質的なもの以外の、ほとんど西欧人の間では共通の認識(普遍的だと彼らが考えること)である政治社会的なこと(人権などの法律概念や人文学の学術概念、社会概念など)も「科学的」なものとみなし、やがては「客観的」なものとみなすようになりました。
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数値的統計的根拠があることも、実は統計サンプルの対象者自体に偏向があったり、統計質問が誘導的であったり、データの集計過程で恣意的な集計を行ったりしているのが現実です。これらについては「社会調査の嘘」「統計調査の罠」とかのキーワードで出てくる情報リテラシーを扱った書籍などで詳述されていますのでここでは省略します。20世紀中盤からは、論理や学問のものの見方も、「物質的な客観」であるとはいえず、少なからず共同主観的な要素が入ることが指摘されるようになりました。有名な事例は、地球温暖化に関する論争です。温暖化は人類の活動とは関係のない、温暖期と氷河期といった自然的な周期現象の一部なのか、人類の工業活動が原因の現象なのか。科学的データといえど、どこまで一般化することができるのか。実験室で再現できない規模の自然現象や社会現象は、「客観的」といえるのか。更には、「1+1=2は単なる人間が決めたルールに過ぎない」「サイズや重さや性質の違う石ころをなぜ同じ「1」と認定できるのか。必要食料量や労働生産性に相違のある男女老人子供を同じ「1人」と算定するのは社会的ルールに過ぎない」という認識の問題や、「科学的な物質測定でさえ、観測結果が観測自体に影響を受けるため、完全な客観ではない」というような科学認識の限界が判明し、19世紀西欧的な素朴な 「科学的測定/科学的認識=普遍的=客観」という認識さえ大きく揺るがされることとなりました。「客観的な実在」は、認識することができない、という哲学議論(この思想のルーツは古代ギリシア時代まで遡る)まで登場しています。われわれは、現在このような時代を生きています。
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「学問的だから」「数字的根拠があるから」として事足れり、という時代は終わってしまいました。「何も信じられない」と懐疑的になったりする人もいます。しかし何も信じられないほど酷いわけではなく、現在では、「客観」を読み解くためには、さまざまな情報リテラシーが必要とされる時代になった、ということです。最低限「図4」にあるような、「さまざまな客観」の区別を身に着け、接する情報(書籍、映像、記事、人の話など)の「客観」が、どのレベルのものなのか、を常に判断する必要があります。ヒトは、自分の主観を客観的だと思いたがり、自分に都合の良い情報を集めるという性質があります。それだけでは終わらずに、政治的/思想的団体を形成し、一部の団体の間主観であるものを、より大きな集団での共同主観にまで拡大し、その団体が政権でも取れば、国家による統計や集計、学問に介入し、「客観」を構築するようになったりするわけです。独裁政権はいわずもがな、民主的な政権であっても、気が付かないうちに「客観的」情報を操作される恐れがあるのが現代社会です。Wikipediaは、認識に相違があれば編集合戦になるから、そうなっていない記事は客観的だ、と、素朴に考えている人を見かけますが、ある言語の記事に編集合戦がなくても、他の言語記事ではまったく異なる内容が記載されていることがあります。編集合戦にならないのは、お互いがその言語を知らないか、異なった言語の記事の内容を知らない、というだけの話であることもあります。Wikipediaは、信頼性の高い学術書籍と、新書や雑誌記事のような信頼性の低い出典からの引用などが混在しており、出典がない文章や雑誌や新書が出典の文章は、間違いだとも断定しきれないため、削除しにくい、このためあやしい文章が残存し続ける、という部分があります(Wikipediaの客観性については、こちらの記事「グローバル時代のWikipedia活用法」をご参照ください)。現代は、ニーチェやマックス・ウェーバーといった人たちが指摘したように、「神々の戦い」の時代であるわけです(学者の中には、このウェーバーの『職業としての学問』に登場するこの文言を、研究者の一部には「神々の戦い」から距離を置いて客観的であるべきだし、客観的であることができる、というように解釈している人がいますが、間違いです。ウェーバーは、大学の講義にあからさまな政治活動を持ち込むな、といっているわけで(それは第一次世界大戦後のドイツ帝国崩壊と社会主義政党の伸長という激動の時代だったから、そういう大学人が少なからずいたという当時の背景がある)、研究者自身が「透明」でありえる、などとは言っていないのです(※この部分は、今野元『Wertfrei は「価値自由」か--ヴェーバー研究におけるドイツ語解釈を巡って 」p142(PDF/2021年)で解説されています。なお、この論文では、ウェーバーは、自分や仲間が攻撃される場合は没価値性を主張し、自分が他者を攻撃する時は、学者は価値中立でなくてはならない、と禁欲を説く、という姿勢が分析されています。こうしたウェーバー自身の言動の揺れが、Wertfrei の訳語が「没価値」なのか「価値自由」なのかを巡る争点となってきたとのことで、今野論文は、この論争全体の構造を示すものといえそうです)。

 今の時代は、客観性の限界を認識しつつ、投げやりにならず、一方で、「学問は客観的だ」などという空虚な権威にすがって象牙の塔にこもり、Wikipediaを否定して放置したり「あれは小説だから」「あれは学問的ではないから」などといって放置するのではなく、だれしもが、情報リテラシーを高め、少しでも人類全体のほとんど(アンダマン島の住民くらい以外は)誰が見ても同じ結果となるような客観的情報の共有方法を構築するよう目指す必要のある時代なのです。

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こういう状況を招いたのは、ポストモダンのせいだ、と批判する人々がいます。彼らの客観認識は、上図6-1のようにまとめられます。この図は、「図3 20世紀前半までの西洋の客観認識」と基本的に同じです。マルクス主義な世界観を引きずっている人々に多く見られる傾向があります。「ある集団の共同主観」と「実在的客観」が同じ色になっていますが、一部の人々の共同主観に過ぎなかったものを実在的客観だと思い込んでいるところで、図3の西欧知が客観的だと思い込んでいた時代の西欧を引きずっています。このタイプの人々は、特定の集団の主観に過ぎないものを、学問で理論武装して客観性を装い、権威主義的に人々に押し付けようとしているのです。

一方ポストモダンを曲解して、歴史修正主義等と指摘される言論活動を行っている方々の多くは、6-2のような客観認識を持っています。彼らも、「特定の集団の共同主観」を客観そのもの、と思い込んでいる点では、6-1の人々と同じ性質を持っています。彼らは、科学や学問をあまりよく理解していないため(科学や学問を振り回して理論武装する6-1の人々にルサンチマンを持っている傾向がある。彼らからは「学者の本より売れている」という台詞がよく登場する。Wikipediaを妄信する傾向もある)、ポストモダンが指摘した、統計情報の恣意性や社会科学の物語性や科学哲学の認識論の結論的文言を一知半解して、「なんでも相対的」「なんでも価値観の違い」なのだから、自分の意見が認められるべきだ、と主張しています。しかしこれらの人々は、数字や学問に弱かったり情報リテラシーが低いのが特徴です(本人たちはインターネットのお陰でメディアに惑わされない自分たちは情報リテラシーが高いと思い込んでいます。※このあたりの現象のうち、近年の米国での現象について分析している書籍のひとつがリー・マッキンタイア『ポストトゥルース』です)。その結果、科学や学問のレベルの客観性を過小評価し、一部の人々は「相対的」といいながら、実は自分の意見を絶対視していて、人に押し付けようとするところが大きな問題なのです。6-1は科学を絶対視し、6-2は科学を相対性の根拠に利用しているという相違にも関わらず、両者ともに、自分自身の考えを絶対視している絶対主義者なのです。

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主観と客観という問題は、唯名論と実在論とも関連しています。なぜならば、唯名論と実在論は、個別と普遍に対する認識論だからです。個別=個人=主観、普遍=社会=客観 と置き換えるとわかりやすいかもしれません。西欧思想は、古代ギリシアの時代から、個別と普遍を巡って考察を続けてきました。近代経済学や社会学、政治学も、方法論的個人主義、方法論的全体主義、などという用語でこの問題を扱っています。個人と社会、或いは個別と普遍という論点で、個人の利益(主観)と、社会の利益(客観)をどのように調整するのか、を巡って膨大な検討や議論がなされてきたわけです。唯名論とは、極論すれば、経験科学のことで、実験して再現性のあるものを基準に世界を認識しています。だいたい近代科学はこの方式です。世界は人間の認識が構築しているもので、実在は認識できない、とするのが唯名論です。唯名論の問題は、例えば「煙をたいて雨ごいする」というような、一応自然科学の原理も含まれているとはいえ、現代科学のレベルからすると魔術的である論理/合理化を完全に排除できないことです。なぜなら、煙を焚いて上昇気流が発生し、結果雨が降る可能性が強まる、というのは、ある程度再現性があり、科学の原理にのっとっていて、複数の人がその再現性を経験的に認知できる内容だからです。これがポストモダンを曲解している人々(6-2)に思想的基盤を与えている部分があります。フェイクニュースも、みんなが信じれば「客観的」になってしまいます。

一方の、実在論者の客観認識は、基本的には6-1と同じです。ここでは「ある社会集団の共同主観」と「実在的客観認識」を同じ色(図7-2)にしています。この二つの客観には大きな関係があるからです。特定の集団の主観に過ぎないものを、学問で理論武装して客観性を装い、権威主義的に人々に押し付けようとしているわけですが、理論武装とはいえ、科学を根拠としていて、これがもっとも効率が良いからです。図1で記載した、「物質的な客観」は、ほとんど誰も文句をつけようのない客観ですが、科学が根拠であれば、もっとも効率的にあらゆる人々に「客観」を提示できるからです。現在の実在論の問題は、その「科学」が、中身をよく検討してみると、完全に物質的だといえない部分も見つかり(恣意的な学説の利用)、単なる理論武装となってしまっていることがわかってしまっている点にあります。そこで、近年の実在論は、「ある社会の共同主観」と、「科学」を切り離そうとしています。しかしそれが簡単ではないのが科学哲学などが指摘しているわけです(なぜなら実際は物理化学といえど経験的な実験に基づく妥当値の理論化だから)。

以上のような状況を受けて、2010年頃から、新実在論とよばれる、唯名論と実在論を止揚しようとする哲学著作が複数現れてブームとなったりしています。

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人が客観性を取得するのはいつのことでしょうか。このあたりは発達心理学などの研究分野です。生まれたての赤ん坊は、ほぼ主観オンリーの世界にいるものと推測されています。最初の他者は母親で、母親との接触により、客観の萌芽が芽生えます。続いて物質や母親以外のヒトを認識し、相互行為を続けて子供の中で客観理解が成長してゆきます。学校にあがり、より多くの人と接触するほど、「客観」は拡大します。高学年になると科学的世界認識も学びます。ところが、主観と客観の話が実生活上で面倒くさいのは、主観と客観をわけられない人が一定程度いるからです(主語を大きくするのも彼等の特徴の一つです)。この手の人を完全に分別する方法はありませんが、普段の言動からおおむね推測することができます。この図からすると、客観と主観をわけられない人は、成長が未発達、ということになってしまうわけですが、そういう面もありますが、そうともいいきれない部分もあります。人間は共感を求める動物なので、成長したからといって完全に排除できるようになるわけではないのです(成長すると主観が完全に排除される事例が、『スタートレック』に登場するバルカン星人)。この共感への志向は、原初の生物の意識に遡る、とか赤ん坊の頃の全体感への郷愁という思想もあったりします(ジョルジュ・バタイユ、ラカンなど)。


9.多元な客観の時代に必要なこと

  • 〇情報リテラシー
  • 〇コミュニケーション
  • 〇相対性への感度
  • 〇批判力、分析力、洞察力、懐疑力
  • 〇寛容さ
  • 〇新造用語で対応
  •     :
  • △相対主義、懐疑主義
  • ×全体主義、情報統制
  • ×ニヒリズム、冷笑主義
情報リテラシーもコミュニケーションも、ベストな案ではなく、ベターなものです。万能の処方箋はありません。もっとも短絡的でラディカルな処方箋は、情報統制や政治体制としての全体主義です。個人的にはこの方法は絶対反対ですが、自分の主観を社会の客観としたがる人々が常に一定量発生している限り、人類社会から全体主義への志向は止まることはありません。全体主義を希望しないのであれば、常に全体主義には目を光らせ抵抗してゆく必要があります。人類に災禍をもたらしたドイツ第三帝国は、ナチス党とヒトラー=悪、という単純な善悪図式で語られることがありますが、最近、ナチスを支持したのは「普通のひとびとであった」とする書籍が紹介されたり、そうしたコンセプトの書籍が登場したりしています。これは当然のことで、全体主義への衝動は、全人類の根底に潜在的にあるからです。だからこそ危険であり、常にその政治運動化を監視し、対応してゆかなくてはならない現象なのです(この手の書籍は昔からあります。例えば『君はヒトラーを見たか―同時代人の証言としてのヒトラー体験 (1973年)』など)。

学問界や思想界でよく言われていることは、コミュニケーションです。私はかなりこれには懐疑的です。民族対立や宗教対立どころか、身近な知人に図6-1や図6-2のような人が登場して、彼らはコミュニケーションなど欲していない、ただ共感を求めている(理論武装の層が厚いのでわかりにくいが)、このような場合正直どうにもなりません。彼らのうちの一部は、自分は公正で公平で中立である、と思い込んでいるため、相手を説得しようという発想しかないので、コミュニケーション自体が成り立たなかったりします。そういう人々とは別に、それでもコミュニケーションが成り立つ人も多いため、このような人々のため頑張ってやってゆくしかありません。また、コミュニケーションは、相手があってのことですが、情報リテラシーは個人でも身につけることができます。

コミュニケーションなど欲していない、ただ共感を求めている人々に対しては、感情が中核にあり、ひたすら共感を求めている、究極的なところに論理がない「感情」という人類普遍の問題が根底にある、ということを理解し、感情という問題にどう対処するかが問われているのです。いわゆる歴史修正主義者の歴史的知識が不正確だから正しい情報を伝えればよい(それも基本として重要だが)とか、そんなものは表層的な問題にすぎないのです。核にある感情を対処することこそが必要なのです。ここができていないから、学者や識者が「正確な知識」を供給したところで、彼等は心底から納得せず、どこかに自分たちの感情を正当化してくれる情報がないかと、都合のよい書籍や情報をネット等で探し続け、それがフェイクニュースであろうと信じることになり、こういうタイプの人々を相手にしたビジネスがはびこるのです。感情は、大きな需要なのです。

個人的には、情報リテラシーやコミュニケーション以外の、もっとインパクトのある対策がないかと日々探しています。

一つのアイデアとして、数名の間の客観、一定の社会集団の共同主観、国家・民族レベルの共同主観などの用語を分ける新語を造語してはどうかと思っています。例えば、両観/複観(数名の間の客観)、重観(一定の社会集団の共同主観)、万観(国家・民族レベルの共同主観)、世観(ほぼ近代文明を受け入れている人類全体の共同主観)、客観(一般的な物理的定義を受容している人は必ず同じ認識を持つ物理的客観)とか。会話する時は、「客観的には・・・・」という、自分が全人類を代表しているかのような言葉使いではなく、「重観的には・・・」「万観的には・・・」と使い分ければ、主観客観を巡る認識上/表現上の混乱はかなり低まるのではないかと思う次第です。数百年くらいかけて人類社会にこうした用語を定着させることができれば、この点に関しては少しはましになるかもしれません。

2019/Oct/12 22:30 追記:
多元的な客観を基礎づける新実在論諸論の入門書『新しい哲学の教科書 現代実在論入門 』岩内章太郎著読了。 突っ込みたいところは結構ありますが、良書だと思います。この記事は本書と関係なく記載したものですが、本書の出版を知り、修正しなくてはならなくなるかも知れないため、修正前の見方を保存しておくためにリリースしたものですが、読了後の今、修正の必要性は感じていない次第です。
2020/Jan/16:リー・マッキンタイア『ポストトゥルース』について追記

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