(1)面白かった本(その2)☆☆☆☆
〇増田幸弘 (著)『棄国ノススメ』(2015年、 新評論)
これに関してブログ記事を書きました。長文となりすぎて終えることができずサスベンド中。ここでは簡潔にします。
一言でいえば、「黒いチェコ」。著者の『黒いチェコ』が題名詐欺だったのに対し、こちらは真正「黒いチェコ」。約3/5がチェコ、2/5がチェコの後移住したスロヴァキアの話。著者のWeb記事によると、2024年現在もスロヴァキアに住んでいて恐らく14年目くらいに入るようなのでスロヴァキア移住は成功したようです。本書を知った時、「世界がフラットになり、ほぼ英語が世界標準言語となり、人の行き来が飛躍的に増大したグローバル化の時代となったとしても、こんなに軽やかに移住できるようになったのだろうか。もしそうだとすれば凄いし、そうなっていることを願いたい」と驚き、そういう世界になった、或いはなりつつある事例なのかも、との期待とともに、半信半疑なところがありましたが、やはりそんな甘いことではありませんでした。なお、著者の移住は、移民ではなく、ほぼ日本の仕事をもらいながらチェコとスロヴァキアに在住する、という、リモートワーク移住です。21世紀の今、こうしたスタイルの移住も移住のうちに入るわけですが、20世紀型の移住をイメージすると肩透かしとなるかも知れません。
〇済東鉄腸著『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』(2023年、左右社)
30歳くらいの青年の自伝のようなもので、冗談のようなタイトルだけどその通りの内容です。しかしひきこもりというのは、通常イメージするのとは少し違うように思います。著者はどうもそこそこの大学に通ってちゃんと卒業しているのですね。しかも週一くらいでバイトもしている。会話学校程度ではなく、大学レベルでの語学学習の原理や方法論は理解している上でのルーマニア語学習なので、高卒程度の方や大卒でも語学嫌いの方が興味本位に学習してみた、というものとはレベルが違います。その上で日本にいながらルーマニア語の教師にもつかず独学でルーマニア語をマスターし、ルーマニアの文芸誌に短編を発表するようになった方です。本書は、そうした著者の、ルーマニア語学習から文芸誌活動までの経緯が描かれているとともに、日本文学とルーマニア文学及び日本とルーマニアの比較通俗文化論との本だと考えた方が良いと思います。明石書店のエリアスタディーシリーズのルーマニア編のなかの、文芸関連の現代文化の覧を、一人の著者が書いた本みたいな感じの部分もあり、巻末のルーマニアの映画・文学・音楽などの紹介の章は現代ルーマニア文化紹介とし大変有用です。こうした書籍として有用ですが、私にとってもっとも印象に残っているのは、p22-23 の以下の文です。
「日本で上映される、日本語の字幕のついた作品しか論じない」批評家たちには「今や「未知」ってものを扱える批評家がいない」「インターネットを通じて日本では知られざる映画を観ることができるようになった。だけどその拡大ぶりがあまりに急速かつ果てしなかった故に、これを取り扱える批評家がいない」「そんななかで俺が魅了されたのは、誰に請われるでもなくただただ自分が書きたいからという理由で、ネットに映画についての文章を書き散らす在野の映画好きたちだった。ここには国境なんかない。だから日本では未公開な映画についても書いている人々がめちゃくちゃいた。旧作・新作の区切りなど関係なければ、国の国境すらも存在しないんだよ。
俺はそういうものを読みまくって、実際に何十本も作品を観まくるうちに、彼らのようになりたいと思うようになった。少なくとも日本の映画批評家のなかには、拡大してゆく世界に散りばめられた個々の作品、それらを線として繋げる知性はもはやない。この知性はインターネットに散らばる、好奇心に突き動かされた映画好きのなかにこそある。そんな存在に俺自身なる必要があると」
私も2007年くらいから2018年くらいまで著者と同じような意識で日本未公開歴史映画漁りをやっていました。人が複数多元的に所属するコミュニティのうちの一つという意味において、同じ世界=コミュニティに住んでいた、ということを知り、感慨深いものがありました。
2010年代のネットカルチャーのひとつの記録としても読めます。お奨めです。
(4)まあまあ面白かった本 ☆☆☆
〇村田沙耶香著『信仰』(文藝春秋 、2022年)
短編集ですが、2編、著者のエッセイが入っています。正直短編小説の方は、これまでの著者の作品と比べるとあまりインパクトがなかったのですが、エッセイの方は強く印象に残りました。これまで著者のエッセイを読んだことがなかったため、著者の著作姿勢がよくわからなかったのですが、このエッセイの趣旨は、「多様性」という言葉がメディアや社会で流通するようになり、時代が変わった、住みやすくなった、と浮かれていたら、実際流通させている人々の多くは、ただ消費しているだけだった、という側面に気が付いて愕然とした、という内容です。著者は、その作風、言動から無名時代から「クレージー沙耶香」と知人友人から呼ばれ、有名になるとメディアでも流通するようになったが、その「クレージー」という言葉が、多様性が受容されたことなのだ、と誤解してしまったことを悔やんで以下のように書いています(p116-7)。
「笑われて、キャラクター化されて、ラベリングされること。奇妙な人を奇妙なままで愛し、多様性を認めること。この二つは、ものすごく相反することの筈なのに、馬鹿な私は区別がつかないときがあった」
「安全な場所から異物をキャラクター化して安心するという形の、受容に見せかけたラベリングであり、排除なのだ、と気が付いた。そして、自分がそれを多様性と勘違いをして広めた」
「私はそのことをずっと恥じている(略)私は子供の頃、「個性」という言葉の薄気味悪さに傷ついていた。それなのに、「多様性」という言葉の気持ちよさに負けて、自分と同じ苦しみを抱える人を傷つけた」「これは、本当に重く、そしてどう償っていいのかわからない」「自分にとって都合が悪く、絶望的に気持ちが悪い「多様性」のこともきちんと考えられるようになるまで、その言葉[※多様性のこと]を使う権利は自分にはない、とどこかで思っている」「どうか、もっと私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように」
リタイアしてこれまであまり付き合いのなかった種類の人々と(主に親の関係者や親の介護関連で)のつきあいができて、気づいた多くのことの一つに次のようなことがあります。
<(メディアやネットとかではなく、リアルな対人関係で)本当に多様性を認めている人は、わざわざ多様性という言葉は使わない。「人それぞれ」とか「多様性の時代ですから」と口にする人は、実は多様性的なものにひっかかるものを感じているからこそ、わざわざ口にする>
ということです。卒業後最初に入った企業でヘンだ、変わり者だ、と分類され、周囲にカモフラージュする習慣を身に着け、その後転社した米国企業では、ほぼ自分が自分でいられることに、ずっと水中にもぐっていてようやく水面に顔を出して息ができたような解放感を味わって以来30年近く、ずっと関わらないでいた、否多様性社会に再び遭遇した感覚があります。
このエッセイで、私は、「あ、やっぱまだだめだったか」と思いました。もともと半信半疑ながらも「もしかしたら時代は変わったのかも」と思ってしまったところがありました。でもそんなに簡単に時代は変わるわけはないのだ。やっぱりもとのとおり、サイレント・ランニングでいこう、と。
このエッセイ「気持ちよさという罪」の後、巻末の作品書誌に、前の方に収録されていた、短編だと思って読んだ作品がエッセイだと知り、再読したところ、こちらにも少しショックを受けました(英語で米国の雑誌に発表されたものとのこと)。小説として読むのとエッセイとして読むのとでは印象が一変してしまいました。
本書では、二つのエッセイ「気持ちよさという罪」「彼らの惑星へ帰っていくこと(Return to Our Home Planet」がもっとも印象に残りました。
全体としては☆3ですが、「気持ちよさという罪」は☆5以上、「彼らの惑星へ帰っていくこと」は☆4でした。
〇通販サイト投稿版(2024年10月13日)
2つのエッセイが秀逸です
短編集ですが、2編、著者のエッセイが入っています。正直短編小説の方は、これまでの著者の作品と比べるとあまりインパクトがなかったのですが、エッセイの方は強く印象に残りました。これまで著者のエッセイを読んだことがなかったため、著者の著作姿勢がよくわからなかったのですが、このエッセイの趣旨は、「多様性」という言葉がメディアや社会で流通するようになり、時代が変わった、住みやすくなった、と浮かれていたら、実際流通させている人々の多くは、ただ消費しているだけだった、という側面に気が付いて愕然とした、という内容です。著者は、その作風、言動から無名時代から「クレージー沙耶香」と知人友人から呼ばれ、有名になるとメディアでも流通するようになったが、その「クレージー」という言葉が、多様性が受容されたことなのだ、と誤解してしまったことを悔やんで以下のように書いています(p116-7)。
「笑われて、キャラクター化されて、ラベリングされること。奇妙な人を奇妙なままで愛し、多様性を認めること。この二つは、ものすごく相反することの筈なのに、馬鹿な私は区別がつかないときがあった」
「安全な場所から異物をキャラクター化して安心するという形の、受容に見せかけたラベリングであり、排除なのだ、と気が付いた。そして、自分がそれを多様性と勘違いをして広めた」
「私はそのことをずっと恥じている(略)私は子供の頃、「個性」という言葉の薄気味悪さに傷ついていた。それなのに、「多様性」という言葉の気持ちよさに負けて、自分と同じ苦しみを抱える人を傷つけた」「これは、本当に重く、そしてどう償っていいのかわからない」「自分にとって都合が悪く、絶望的に気持ちが悪い「多様性」のこともきちんと考えられるようになるまで、その言葉[※多様性のこと]を使う権利は自分にはない、とどこかで思っている」「どうか、もっと私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように」
このエッセイ「気持ちよさという罪」の後、巻末の作品書誌に、前の方に収録されていた、短編だと思って読んだ作品がエッセイだと知り、再読したところ、こちらにも少しショックを受けました(英語で米国の雑誌に発表されたものとのこと)。小説として読むのとエッセイとして読むのとでは印象が一変してしまいました。著者は作家であるとともに内容のメッセージ性の強さから言論人でもあるため、どこまで本当のことを書いているのかはわかりません。しかし私には著者の痛切は本当なのだろうと感じられました。
本書では、二つのエッセイ「気持ちよさという罪」「彼らの惑星へ帰っていくこと(Return to Our Home Planet」がもっとも印象に残りました。他はおおむね☆3ですが、「気持ちよさという罪」は☆5以上、「彼らの惑星へ帰っていくこと」は☆4でした。
〇中野美代子著『契丹伝奇集』(日本文芸者、1989年)
(2)歴史学方法論関連
〇藤原辰史著『歴史の屑拾い』(講談社、2022年)☆☆☆☆
『ナチスのキッチン』、『トラクターの世界史』などの著作は知っていましたが、著者の本を読むのは初めてです。言語論的転回に言及している、とのことで読みました。どこで読んだのか忘れましたが、本書で言語論的転回に言及している、ということを知り、読んでみたものです。その言語論的転回に関してはあまり印象に残っていないのですが、その後長周新聞掲載の「 ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景」(2024年2月23日/更新3/15)を読んでみて、言語論的転回に肯定的に言及したことの著者のスタンスが納得できるものがありました。これはよい記事です。しかしその後に繋がってゆくのかどうか、欧米学者との間に溝ができて研究生活に支障が出ないか、など今後の懸念もあります。ただこう書いたからには、向き合っていて欲しいと思います。今回のガザ紛争に見出せる数少ないポジティブ要素として今後に繋がっていって欲しいと思っています。この本自体の話、ドイツに調査にいって、安くすますことに腐心した話など、共感できるエピソードがいくつかありました。この本で引用されていたので、俳優の松重豊氏のエッセイ&短編小説集『空洞のなかみ』( 毎日新聞出版、2020年)も読んでしまいました。短編の方はあまりピンときませんでしたが、下積み時代のエッセイなど面白く読めました。
〇 ヘレン・プラックローズ 著, ジェームズ・リンゼイ 著『「社会正義」はいつも正しい』(日本語版2022年、早川書房)
キャンセルカルチャーと、その背景にある物象化ポストモダニズム批判の本。左派の中には感情的に拒絶反応を起こす人もいるようで、読んでもいないのに、著者のジェームズ・リンゼイ を「ミシェル・フーコーの名前すらまともに発音できない人物なんですよ」とか、「めちゃくちゃに刀を振り回している(略)イタいおっさん」など、本書の内容とは無関係なところで感情的にこきおろす(これ人格攻撃とか誹謗中傷の範囲に入るような気もします)ような長文の記事を書いている人(こちら)もいたりして、そもそも翻訳者の一人が大文字のアメリカン・リベラル山形浩生氏ということでは、極めて思想性の強さと、その強さと語学力からくる意図的で学術的にはギリギリセーフなラインを狙った歪曲スレスレの意訳なども懸念されるわけで(実際、氏が書いた「解説」には問題があったようでWeb掲載が取りやめになった、という経緯がある。取りやめになったのは、キャンセルカルチャーのサンプルとしての敢えての行為かも知れないが)、本の内外ともに地雷満載の書籍なわけですが、読まないわけにはいかないので読みました。私は現時点ではこの本を評価できるほどの知見がないため、取り合えず本書で批判されている、 ロビン・ディアンジェロ 著『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか? 』(日本語訳2021年,明石書店)を読みはじめているところです。
本書については2022年の歴史学方法論本紹介記事の中で紹介した書評家の記事「プラックローズ&リンゼイ 著『特権理論:ポリティカルコレクトネス、アイデンティティポリティクス、フェミニズムはいかなる理論的根拠に基づいているのか』(2020年)/90点」の評者田楽心(田中ラッコ)氏の、リンゼイが極右で陰謀論者との情報が出回ってからの再書評記事「『「社会正義」はいつも正しい』の掲げた「リベラリズム」の空虚さ 」があり、私の印象はこちらに近い。ここで田楽心氏は、リンゼイ自身に言動にはおかしなところはあるが、だからといって本書の内容が全部おかしいということにはならない、とし、
「毛沢東やスターリンや山上徹也が言っても、「1+1」は「2」であり、毛沢東やスターリンや山上徹也が言ったからという理由でその反対「1+1」は「2ではない」が正しくなるわけではない」と書いています。
また、そもそも共著のヘレン・プラックローズの方は、「少なくとも現時点では」リンゼイのようなスキャンダルは出てないわけなので、「この本に対する「極右の著者が書いた本」との非難は現状、事実の半面ではあるが全部ではないわけだ」「著者の一人は明らかに言動に問題がある。本自体の理想は穏健で、もう一人の著者はたぶんセーフだ。(今のところ)」とコメントしています。
本書の第7章の「障害学とファット・スタディーズ 支援グループのアイデンティティ理論」では、治療が必要な肥満さえ、アイデンティティとして「ありのままの自分でいい」と肯定してしまうような現行の「ファット・スタディーズ」(そういう学問分野があるのですね)(の一部)はおかしい、と指摘していますが、この論説の、少なくとも主旨と動機自体がおかしいかどうかは、共著者のヘレン・プラックローズを検索すれば、画像がでてきて一発で判断できるのではないでしょうか。この人自身がかなりの肥満であって、治療の必要性のある肥満について理解している筈です。身の危険を実感できる立場にいるからこその、現行のファット・スタディーズの一部の理論はおかしい、との指摘は納得できます。命がかかってるわけですから。
この本の細かい記載を批判指摘し、誤りがあれば訂正させることは必要ですが、著者のひとりであるリンゼイの普段の言動がおかしいからといって、本書の内容がおかしいと全体を否定することこそキャンセルカルチャーというになるのではないでしょうか。そこで細かい批判を知りたいわけですが、現時点で見つけているのは、「『「社会正義」はいつも正しい』での引用がひどい」という記事です。この記事も、なんだか細かい粗をわざわざ探しまくっているように見えてしまい、これを読んだからといって私の場合全体の印象が変わるわけではないのですが、実は引用については、私もひっかかるものを感じていた点があります。というのは、著者が指摘している筈の内容の趣旨が、引用されている文章には見つからないような? という部分がいくつもあり、また、引用文でも何度か読み直してやっとどの部分のことをいっているのかが理解できるものも多く、著者が引用文よりも解説文の方にいろいろ書き込むことで著者の解釈で上塗りしているように思える部分も結構あったりして、こうしたところは、以前サイードの『オリエンタリズム』(上)を読んだ時に感じた、サイードの文章と似たような印象を受けました(『オリエンタリズム(上)』のレビューはこちら)。
なので、本来なら引用部分を全部チェックするくらいのことが必要なのですが、本書で引用されている各種英語論文やweb記事をチェックするのは私には手があまります。そこで、本書で批判されている著名著作であれば、日本語版も入手しやすいため、まずはロビン・ディアンジェロ著『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか? 』から読んでみるつもりです。
そうはいっても、総論的には本書の主張には納得できるところがあります。応用ポストモダニズムや物象化ポストモダニズムの知見はありませんが、オリジナル・ポストモダニズムならある程度知識がある私からしても、本書の最初の方で学説史的に記述されているオリジナル・ポストモダニズムへの指摘(弱弱しい知識人のシニカルな逃避)については、まあ、そうだろうな、と思っていましたから。本記事の上の方の村田沙耶香氏の『信仰』のところで書いたような、近年ポストモダン的な言説が社会のメインストリームで受容されるようになってきているように見えることに、時代が変わった、住みやすくなった、と少し思ってしまったのですが、「やっぱまだだめだったか」、という感触は、本書でも受けました。とはいえ、オリジナル・ポストモダニズムの指摘や本書のリベラリズムの解釈には問題が無さそうなので、他もそれほど問題のある書籍ではないのかもしれない、というのが現時点での個人的印象なわけですが、そうはいっても本書の他の部分(オリジナル・ポストモダニズムとリベラリズム以外の部分)が適切なのかどうかは別の問題なので、そちらについては今後もウオッチしてゆきたいし、いずれは通販サイトにレビューを書きたいと思っています。
いずれにしても、本書は、真面目な学術的批判と評価が行われるべき著作であって、冒頭で紹介した、読みもせずに感情まるだしの非難をして貶めるような、キャンセルするような書籍ではないので、取り合えず早川書房さんには、書籍版を増刷して欲しいと願う次第です(中古が高額になっているので図書館で借りて読んだのです。増刷が出たら買いますから、お願いします)。
〇筒井淳也著『数字のセンスを磨く』(光文社、2023年)
アマゾンレビューを見ると、この本をデータサイエンスの教科書として認識している方が多いようですが、この本は、メディアや一般向けの社会科学本やポピュラーサイエンスに登場する数字のリテラシーの本です。教科書的なのは第5章分析のセンスの章だけで、他の部分は、社会人としての基礎的な数字に関する基本的なリテラシーを比較的包括的にまとめている本なので、義務教育の副読本としても良いような本だと思います。この本もそのうちレビューを書く予定です。
※2024年10月13日通販サイト掲載版追加
これは社会人が基礎的に身につけておくべき情報リテラシーの本です
アマゾンレビューを見ると、この本をデータサイエンスの教科書として認識している方が多いようですが、この本のほとんどの部分は、メディアや一般向けの社会科学本やポピュラーサイエンスに登場する数字のリテラシーの本です。専門教科書的なのは「第5章分析のセンス」の章だけで、他の部分は、社会人としての数字に関する基本的なリテラシーを包括的にまとめている本なので、高校レベルの義務教育の副読本としても良いような本だと思います。
メディアや世界史など社会科学や人文系含むポピュラーサイエンス本などでは杜撰な数字の利用によく出くわします。何かを比較したデータに接する時には、母数を揃える、スケールを揃える、定義を揃える、ということは基礎中の基礎なのですが、都合のよい結論に見えるように恣意的母数の違うもの、スケールの違うもの、定義が異なるものを比較した図表に度々出くわします(異なった定義を比較するパターンは統計以外のもの(例えば〇〇は世界一、世界最古の〇〇、世界三大〇〇、史上最強の武将は誰?)などの議論でもよく見かけます)。この、比較の場合に条件を揃える、ということは因果関係を論じる場合でも同様であると本書でも解説されていますが、因果推論の概説書はいくつも出ている一方、比較論の概説書は見たことがないので、もしまだないのであれば一般向け新書レベルの比較の方法を論じた入門書もあった方が良いのではないかと思います(既にあるのかも知れませんが)。
こうした、日常に蔓延している雑な議論を少しでもスリムにするために、社会の基礎教育レベルで比較や因果、数量化にまつわる問題とそれに対するリテラシーを広く世間に広めることは、喫緊の課題なのではないかと常々思っておりましたので、本書はそうした課題に応じた大変有用な書籍だと考える次第です。以前、難関中学入試問題で、グラフの見方を問う設問が出されているのを見たことがありますが、5章を除外しても一般的な中学生にとっては本書の内容そのままではやはり難しいと思われるため、著者にはぜひ、中高生向けの、まさに義務教育現場で利用可能な簡易版の出版を検討して欲しいところです。その場合、校内アンケート調査実習などが含まれていると数字に関する問題課題がより深く実感できるのではないかと思います。
個人的に思うのは、不特定多数の顧客を相手とした営利企業や団体、或いはそこそこ大きな組織の社内調査(身近なところでは町内自治会なども)でアンケート調査に携わったことがある人であれば、質問項目の決め方や、集計時のさまざまな困難さ、想定外の事態の発生とその対処など、本書で著者がいわんとしていることの、もっとも基本的なところはだいたい理解できているor理解できる筈だと思うわけです。そうした経験のない方の場合でも、身近に機会が出てきたらぜひ関わってみることをお奨めしたいと思いますし、調査経験のない方でも、家計簿などを表計算ソフトで管理している方であれば、途中で数字の条件が変わる(原油高で政府が補助金を出して安くしている期間など)場合、単純比較は難しいことなど、身近なところで数字の加工者側に立ち、リテラシーを高める機会は日常環境にたくさん潜んでいると思いますので、本書のような内容を決して専門分野のものとだけ考えることはせず、日常的に身近なものだと感じて欲しいと願う次第です。
読者のリテラシーが高まれば、従来リテラシーの格差を利用して恣意的なグラフを作ってきたメディアや知識産業側でも、より正確なデータの出し方するようになることが期待されますし、読者側も、特定の政治的宗教的主張を広げるための誤情報や特殊詐欺の仕込み広告などに接した場合の耐性がつくことが期待されます。
※先日テレビニュースで、がん治療に関する不正確な情報に関する特集が報道されていましたが、こうした、日常的に各所でバラバラに報道される特殊詐欺、不正確な情報など含め、義務教育課程で包括的に扱う情報リテラシー教育の導入が急がれます。がん治療のニュースではチェックポイントリスト「かちもない」が表示されていましたが、ネット上では、「すさぎしかな」リスト、「だいじかな」リスト等々が乱立し、個人で全部の情報を学習するのは限度があります。
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〇デイヴィッド・スローン・ウィルソン 著『 社会はどう進化するのか——進化生物学が拓く新しい世界観』( 亜紀書房、2020年)
最近遺伝子考古学の本を2冊程読んだので、今度は近年の進化生物学を知りたくて読んだ本。が、この本は、社会哲学の本でした。その哲学とは、社会進化論です。著者が社会進化論の立場(ナラティブ)から、生物学研究の成果をまとめあげた、という本です。
アマゾンのレビューには、「進化論の衣をまとったトンデモ本」とのレビューがありますが、本書のナラティブが目についてしまう読者はそう思うでしょうね。こうした、ナラティブとか思想といったものを相対化できる読者であれば本書は有用だと思うのですが、このあたりに免疫のない人が読むと、科学成果の紹介の方ではなく、著者のナラティブの方を「科学的に証明された真実」のように受け取ってしまう懸念があり、逆にその思想性ばかり目についてしまう人はトンデモ本との評価となってしまうわけですが、そうした社会哲学や思想といったものを相対化できている人であれば、それなりに興味深い研究事例が読めますので、この点で有用かと思います。というような乱暴なレビューにしたくないので、もちょっと丁寧なレビューを書きたいとは思っているのですが、そこまでして推奨したい本でもないので、取り合えずここに殴り書きしてしばらく放置しようと思います。読物としては面白く読める本です。
〇佐藤信弥著『古代中国王朝史の誕生――歴史はどう記述されてきたか 』(ちくま新書 1771,2024年)
本記事(1)でコメントを書いたので省略します。お奨めです。今年読んだ本ベスト10に入るでしょう。
購入したもののまだ一部しか読んでないものも一応書いておきます。
〇NHK出版 日本放送協会編集、講師:朱 喜哲 『NHK 100分 de 名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年 2月』2024年
本はまだ読んでませんが、ETVの番組を観ました。 リチャード・ローティについてはあまり知らず、渡辺 幹雄 著 『リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師』(1999年、春秋社)の中の、米国のアカデミズムにおける左翼の浸透の部分について100頁程読んだことがあるだけで、アメリカ左翼については参考になったものの、私と相性が良さそうなところはハーバーマスに対する認識が私に近い感じだったことくらいの認識でした。しかしこの番組を見て、かなり近いというか、今後、私のスタンスを説明する場合、ローティを用いればいいのでは?というくらいな印象を受けました。ので、テキストの方も近いうちに読もうと思っています。方法論のピーター・バーガー、『歴史のメタファー』のロバート・ニズベットと並んでローティを加えた米国人三人で私の立ち位置を簡単に語れるような気もしてます(卒論指導の先生は、「君はドイツというよりフランスだな~フランス語を勉強しなさい」といってましたが、、、個人的には私の立ち位置を語るにはウンベルト・エーコだとずっと思っていたのですが、、、)。それを確認すべくローティを、その前にローティについての本を、いやまずは本書を読もうと思っています。
〇須永 恵美子, 熊倉 和歌子編『イスラーム・デジタル人文学 (U-PARL協働型アジア研究叢書)』、 2024年、人文書院
基本的に、一般財団法人人文情報学研究所 監修、小風尚樹編『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』(2021年、文学通信)のイスラーム研究版です。相違点としては『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズ』に掲載されている、デジタル人文学の概要やここ10年くらいの略史の部分は本書にはないため、これらの部分は知っている人が前提の書籍だと思った方が良いでしょう。『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズ』もITネイティブの世代でなければハードルが高いかも知れませんが、ITネイティブ世代にとってはデジタル人文学の入門書として利用できます。しかし本書の場合は、ITネイティブ世代であっても、デジタル人文学の知見がまったくない人にとってはハードルが高い可能性があるため、基本は欧米圏中心の事例で編集されているものの入門概説の位置づけとなっている『『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズ』を読んだ後で進む書籍なのではないかと思います。現在3割くらい読了済。
〇渡辺 和行著『近代フランスの歴史学と歴史家―クリオとナショナリズム (MINERVA西洋史ライブラリー)』、2009年、 ミネルヴァ書房
19世紀末から20世紀初頭のフランス歴史学の史学史本です。図書館で一部読んでいたことと、本書のテーマに関する著者の主な主張は、著者の論説PDFがネットで公開されていて既に読んでいたため、現時点では低優先度扱いです。今年中には読了したいところ。
〇野村 康著、『社会科学の考え方―認識論、リサーチ・デザイン、手法』(2017年、 名古屋大学出版会 )
社会科学の方法論の本です。2021年に出た吉田 敬著『社会科学の哲学入門』(勁草書房 )や筒井淳也著『社会学 (シリーズソーシャル・サイエンス) 』( 岩波書店)を合わせたような社会科学の方法論を扱った書籍です。『社会科学の哲学入門』に引用されていたのでもっと早く認識すべきだったと思うのですが、これは社会科学方法論本としてかなり期待できそうな書籍という印象。といっても、基本吉田本筒井本を合わせればカバーできている内容との印象があるため優先度は高くはなく、こちらも今年中の読了を目指しています。
社会科学の方法論の本です。2021年に出た吉田 敬著『社会科学の哲学入門』(勁草書房 )や筒井淳也著『社会学 (シリーズソーシャル・サイエンス) 』( 岩波書店)を合わせたような社会科学の方法論を扱った書籍です。『社会科学の哲学入門』に引用されていたのでもっと早く認識すべきだったと思うのですが、これは社会科学方法論本としてかなり期待できそうな書籍という印象。といっても、基本吉田本筒井本を合わせればカバーできている内容との印象があるため優先度は高くはなく、こちらも今年中の読了を目指しています。
また長文となってしまったので、1月から4月の分は(3)に続きます。
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※2024年10月13日 ver1.1
〇筒井淳也著『数字のセンスを磨く』(光文社、2023年)、村田沙耶香著『信仰』(文藝春秋 、2022年)の通販サイト掲載版を追記
この記事へのコメント
済東鉄腸
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R30UDLTRVXFN5S?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
Twitterで、私の著書「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」についての、面白いAmazonレビューがあることを知りました。“2010年代のネットカルチャーのひとつの記録としても読めます。お奨めです。”との言葉に嬉しくなりました。
そんな中で“私も2007年くらいから2018年くらいまで著者と同じような意識で日本未公開歴史映画漁りをやっていました。人が複数多元的に所属するコミュニティのうちの一つという意味において、同じ世界=コミュニティに住んでいた、ということを知り、感慨深いものがありました。”という最後の段落を読んだ時、喜びとともに、ん?と思いました。“日本未公開歴史映画漁り”……?私、昔ヴラド・ツェペシュの伝記映画紹介ページとか読んでたぞ……となったんです。
そしてAmazonのプロフィールに行くと“古代世界の午後”という言葉が。これでググって出てきたWebサイトを探索すると……見覚えのあるヴラド・ツェペシュ伝記映画の紹介ページが目に入って、もう本当に様々な感慨が込みあげてきました。ここ、正に昔読んでたサイトじゃないか!と。
solaris1さまは、“人が複数多元的に所属するコミュニティのうちの一つという意味において、同じ世界=コミュニティに住んでいた、ということを知り、感慨深いものがありました。”と書いてくださっています。しかし実際は“同じ世界=コミュニティに住んでいた”どころか、正に私が影響を受けた“ネットに映画についての文章を書き散らす在野の映画好きたち”の一人がsolaris1さんなんです。まさかこんな形で出会える、いや“再会”できるとは夢にも思っておりませんでした。
私が長文メッセージを書かせてもらった理由、それはsolaris1さん、そして“古代世界の午後”に直接感謝を伝えたかったからです。solaris1さんという巨人の肩に乗ることで、私は未公開映画を観てルーマニア映画に出会い、そしてルーマニア語作家になりました。本当に、本当にお世話になりました。心の底から感謝します。
長々としたメッセージ、申し訳ございません。これから、まだ読みきれてない記事やこの雑記なども読ませていただきたいと思います。重ね重ね、感謝です。Mulțumesc cu frumusețea maximă!
済東鉄腸
zae06141
ご連絡ありがとうございます。ヴラドの映画記事ですか、、、あれは登場する地名に難儀したことを覚えています。
当時、特に2011年から2012年は熱に浮かされたように未知の映画を検索し見まくってました。他にも同じような活動をしているブログやサイトがよくヒットし、それらの中には、恐らく鉄腸さんもご覧になったものがあったかも知れません。今も、ちょくちょくヒットしていた日本未公開ホラー映画や未公開ミニシアター系映画ブログのことを思い出しました。懐かしいですね、、、特に交流はなかったものの、(だいたい)同じ方向を向いて活動されている方々がいることは心強く感じたものです。今はどうしているのかな、、、こんど検索してみたいと思います。
>巨人の肩
とんでもないです。ネットのwebの意味の通り、誰しもが網の目の一つであって、誰でも情報の受け手と流し手となって広大な情報の大河に参加できることを、ネットは実現し可視化したものと思っています。その網の目の一つとして意味があったのだと知ることができたことは嬉しい限りです。
今度新作が出るそうですね。更なるご活躍を願ってます。
※「まだ読みきれてない記事」ですが、私のサイトは主に検索してたまたまヒットした情報がお役に立てれば」との趣旨ですのでお気遣いは無用で大丈夫です。いつか検索してたまたま私の記事がヒットするようなことがあれば、そのときにでもお声がけしていただければ嬉しいです