感想・紹介:ダニエル・ウルフ著 『「歴史」の世界史 (ミネルヴァ世界史〈翻訳〉ライブラリー) 』2024/7/23南塚信吾 (監修, 翻訳), 秋山晋吾 (監修), 小谷汪之/田中資太 (翻訳)

(1)感想・紹介

ジャンルとしては、史学史のグローバル・ヒストリーの本です。”世界史学史(史学史のワールドヒストリー)”ではない点注意が必要です。一般に、ワールドヒストリーとは、個別の地域史を併記(或いは合算)することで世界全体の歴史を描くタイプの歴史叙述とのことです。極端に言えば、各地域史の担当者が、個別の問題設定、焦点、歴史観でばらばらに書いても成り立ちます(さすがに地域Aを政治史、地域Bを経済史、地域Cを文化史、、のように描くようなケースはワールドヒストリーとはいえないと思いますが、、)。これに対してグローバル・ヒストリーは、単一の問題設定/観点/アプローチを一貫して空間軸/時間軸の双方に適用して単一の歴史像を描き出すものです。従って、問題意識に一貫性を持たせるには単一の著者の方がやりやすい筈で、本書も単独の著者が書きあげています。この点大変な労作です。しかし、世界古今東西と対象が大きすぎることから、単独の著者が扱う限界も垣間見えるところがあります。しかし、恐らく現段階では、ワールドヒストリーとしてもグローバルヒストリーとしても、もっとも完成度の高い書籍だといえるのではないかと思います。


本書は史学思想(史学方法論)に焦点をあてた史学思想史/史学方法論史のグローバルヒストリー本だといえます。古今東西の著名な歴史書を時代順地域順に単純に列挙してゆくタイプの歴史本でもありません。そういう使い方もできないわけではありませんが、登場する著作の内容についてはあまり言及がなく、その著作のアプローチ方法に焦点があてられています。ゲオルク G.イッガースの、欧米を対象とした『 ヨーロッパ歴史学の新潮流』(日本語版1986年/晃洋書房)、『20世紀の歴史学』(日本語版1996年/晃洋書房)を読んでいる方は、イッガース本のグローバル・ヒストリー版だと思えば本書がどういう本なのかイメージしやすいのではないかと思います。本書を気に入った方には、古今東西の世界観を扱った『「世界史」の世界史』もお奨めです。

著者は欧米人ですから、やはり西洋史中心の内容となっているわけですが、西洋史プロパーが書いているにしては非西洋史部分もかなり綿密な内容となっています。東アジア史における文献史料研究の場合、日本の学者の方が全体としては欧米よりも膨大な研究蓄積があるため、この手の著作においては、読前、中国史や日本史の記載部分では欧米学者の底の浅さが露呈するのではないか、との懸念もあったわけですが、本書は欧米学者の英文著作だけではなく、中国人や日本人研究者が英語で書いたものか、英訳された書籍を参照しているため、予想以上にしっかりした内容でした。とはいえやはり限界もあり、特に中世中国史の参照書籍は20世紀のものばかりと若干古いからか、本書の翻訳者が日本人研究者に確認し、訂正等の註釈を入れている箇所がいくつかあり、著者と著作の列挙に終わっている部分もあります。本書は、研究者が監修を務めているため、単なる翻訳ではなく、学術的な確認をかなり行っている気合の入った翻訳となっています(中世イスラームは少し簡略すぎ、大塚和夫「「オリエント」の歴史意識」(『岩波講座哲学 11 歴史/物語の哲学』所収(2009年)などで補填すると良いかも知れません)。

本書はもともと院生向けに書かれた約600頁の『A Global History of History』(Cambridge University Press,2011年)を学部生向けに簡略化したものとのことですが、単純な簡略版ではなく、2011年以降の差分についても追加されています。特にSNSの爆発的拡大とともに飛躍的に社会問題となってきた記憶の歴史や歴史戦争、修正主義問題の動向までカバーされており、「はじめに」によれば、章構成や時代区分も一部変更され、2011年版とは別の、独自の価値のある書籍となっているとのことです。

節題含む詳細な目次は、ミネルヴァ書房のサイトにありますので、以下では章題のみを引用しています(括弧内の数字は章の頁数、その後ろは章の主題です)。最初の章のみ、節題も記載します。

序 章 用語と視角(21、本書の主題、ポイント、若干の事前知識)
   歴史と人間
   「ヒストリー」
   「ヒストリオグラフィー」  
   「西洋」の歴史
   ヨーロッパ中心主義
   「ヨーロッパの地方化」

第1章 歴史叙述の最初期の形態(48、古代の諸史学史)
第2章 15世紀中頃までのユーラシアにおける歴史(58,中世の諸史学史)
第3章 過去というものの意識――1450~1700年(58,大航海時代の諸史学史)
第4章 啓蒙、革命そして反動――1700~1830年(62、啓蒙主義時代の歴史学)
第5章 過去の規律化――専門化、帝国主義そして科学 1830~1945年(80、近代歴史学の確立と発展)
第6章 移 行――戦間期から現在に至るまでの歴史学(88、アナール派~ポストモダン以降)
第7章 私たちはどこへ行くのか――反省、新たな方向、そして兆候(26、本書刊行時点(2019年)の最新状況と今後の展望)

古代から啓蒙主義時代の各章は、ほぼ均等な配分となっていて、史学史本では定番の有名トピック偏重(ヘロドトスとトゥキディデスなど)とはなっていない点は重要です。また、第三章では頁数にして丁度半分が新大陸を対象しており、史学史本では大航海時代の新大陸が取り上げられること自体ががまずないことを考えると、この点も本書の大きな特徴の一つです。


本書では膨大な著者・著作が登場していますが、本書が重要だと見なす著者については記載が多く、以下は記載の多い人名です(以下は言及回数ではなく、著者について集中的に論じている箇所のページ数)。


〇ニーチェ5頁弱、司馬遷4頁半、ランケ4頁強、ヘルダー3頁強、ヘロドトス3頁弱、ポリュビオス3頁弱、ヴォルテール3頁弱、ヘーゲル2頁半、コリングウッド2頁半、トゥキディデス2頁強、ランプレヒト2頁強、ヴィーコ2頁強、マルクス2頁強、コンドルセ2頁弱、

〇ホセ・デ・アコスタ1頁半、ポマ・デ・アヤラ1頁半、ブルクハルト1頁半、コント1頁半、ホワイト1頁半、イブン・ハルドウゥーン1頁半弱、タキトゥス1頁強、アウグスティヌス1頁強、章学誠1頁強、トインビー1頁強、司馬光1頁、アンミアヌス・マルケリヌス1頁、バックル1頁、エウセビオス1頁弱、マスウーディー1頁弱、ジャン・ボダン1頁弱、クローチェ1頁弱、ブローデル1頁弱、

以上は1頁弱以上の面々です。個人的には、ニーチェがトップであることに、本書の大きな特徴のひとつを感じています。歴史学方法論に影響を与えた諸思想家のうち、ポストモダン転換の遡及点にあたるもっとも重要な人物がニーチェだと考えられるからです(索引上での言及回数でいえば、ニーチェはランケの半分に過ぎないが)。参考までに、史学史や社会科学の方法論でよく登場する著名人を次にあげてみます。著者が強調したい点がどのあたりにあるのかが見て取れるかも知れません。

〇ウェーバー2/3頁、フロイト半頁強、デュルケム1/3頁

(個人的には、アナール派や文明論に影響を与えた地理学方法論者であるラッツェルとブラーシュに言及がなかったのは残念でした。ラッツェルとブラーシュについては林健太郎『史学概論』(初版1953年)が今もって有用です)。

著者はなかなかウィットに富んでいるというか、皮肉屋というか、面白く印象深い一文が多いのも特徴です。中でも「まったくその通り!!」と思わずニヤリとしてしまったのが以下の4っつの文です。

①「包括的な歴史を求める極めて雄大なプランが、しばしばヨーロッパ中心主義という浅瀬で座礁してしまう」(p9)

②「この有名な警句は学生がランケについて知っている唯一のことであることが多い」(p254)

ランケの警句とは、「それが実際に起こったように wie es eigentlich gewesen」という文言のことです。本書の非凡なところは、ランケに関する記述で、ちゃんと裏ランケ(『歴史学のトリセツ』(2022年)で小田中直樹氏が「科学としての歴史学」の確立者だと評価した部分のランケを個人的に、「表ランケ」と呼び、歴史哲学者としてのランケを裏ランケと呼んでいます)についても記載されているところです。p255ではランケは以下のようにまとめられています(以下引用文中の「言葉」とは上の警句のことです)。

③「ランケがどういう意味でこの言葉を使ったかよりも、のちに彼を尊敬する人々が世界の他所でどのように彼の言葉を解釈したかのほうが重要である。彼らの多くは、ランケは明確な事実に基づかないものはすべて完全に避けて、憶測や解釈を拒絶することを意図したのだと、間違って信じた。このように信じることによって彼らは、ランケの著作にある倫理的・哲学的側面を無視したのである。ところがこうした側面はランケののちの著作では非常に明瞭であり、教訓的歴史に反対したと言われるこの若い時の発言を無意味にしてしまうほどなのである」

いわゆる「素朴実証主義」批判に関しても、次のように端的に記載されています。

④「十九世紀全体におけるランケ的な歴史へのアプローチおよび二〇世紀におけるその継続が、時々「実証主義」として言及されることになった」しかしながら、「こうして、歴史研究における「実証主義」は、我々の時代には、ある程度スケープゴートのようなものになってしまい、証拠に基づく経験主義をはじめとするそれまでのあらゆる「素朴な」歴史観の罪が、その上に積上げられ、ついでそこから、信用をなくした諸観念の知的荒野に追放される場となってしまったのである」(p264)

600頁の書籍を簡略化しているため、余分な文章は削ぎ落されてます。大変重要なことが端的で研ぎ澄まされた言葉で記載されているため、予めある程度知ってないと難しいところもあるかも知れませんが、現段階ではもっとも決定版に近いグローバル史学史本なのではないかと思います(引用部分に関し原文を確認しましたが、訳文で感じる以上に簡潔過ぎるくらいのぎりぎりの単語で構成されていて、こなれた日本語に上手に写されている印象を受けました)。

序章で著者が懸念していたヨーロッパ中心主義という浅瀬では、船底をあちこちぶつけ、一部へこんだりしながらも、なんとか座礁せずに乗り切った、という感じです。

個人的には、ランケの扱いとともに言語論的転回とポストモダンがどのように記載されているのかが最大の関心事で、これらはp375から382の「言語論的転回とポストモダン」の節で扱われています。重要視していた点のひとつに言語論的転回とソシュールの関係に関する著者の捉え方がありましたが、本書では、ソシュール自体が登場しませんでした。これはかなり大きなインパクトです。というのも、ソシュールが「思考は言語が規定する」という言語相対論を歴史学に広めた源流だとする言説の流布に本書監訳者の南塚氏が関わっていたからです。本書においては、言語論的転回の起源は次のように記載されています。

カーの著作が「「事実について研究を始める前に歴史家を研究する」よう、学生たちに促した。この穏健な懐疑主義の苗床が、歴史学の細分化と相まって、「言語論的転回」として知られるようになるものの地盤を、歴史学の内部に準備した。しかしながら言語論的転回自体はまったく歴史学の外部から、哲学と文学理論から発生したのであり、しばしば人類学に影響を受けた並行現象である「カルチュラル・ターン」と同一視されることがある。そして両者ともしばしば(略)ポスト構造主義として知られる人文学上のより広い理論的運動と関連づけられる。ポストモダンに特に影響を与えたのは」と、以下名前が列挙され、フーコー、リオタール、デリダ、ハイデガー、ガダマー、ベンヤミン、ニーチェと続いています(p375-6)。

ソシュールの名前も、言語理論への言及も登場していません。南塚信吾氏訳ノーマン・ウィルソン著『歴史学の未来へ』では、本文のソシュールの記述(p58-60,p196-8)では「思考は言語が決定する」という文言は登場していないにも関わらず(「言語が現実を決定するのは、言語が現実を概念化するための、ありうる方法の範囲を決定するからである」とは書かれており(p59)、現実の概念化とテクストのつながりを断ち切ったのはデリダとバルトだと書かれている(p60))、巻末に南塚氏が追加したポストモダンに関する補論のソシュールの項では「人間の思考のほうが言語によって決定される」との文言が登場し、巻末の補論参考文献ではゲオルグ・イッガースの『20世紀の歴史学』(英語版)を参照していて、本文でもイッガースが言及されています。そこで日本語版『20世紀の歴史学』を参照すると、p113に、「「人が何を考えるか」は言語によって決まるのである」と記載されていて、ソシュールをサピア・ウォーフばりの言語相対論と認知しているように見えます。イッガースがキャリア形成をしたのは米国亡命後の、サピア・ウォーフ仮説が影響力を持っていた時代であったため、もしかしたらイッガースのソシュール理解はサピア・ウォーフ仮説に影響を受けたのではないか、との疑念さえよぎってしまいます。本書の言語論的転回とポストモダンの節のある章の参考文献にも『20世紀の歴史学』が記載され、巻末の謝辞では、本書刊行近くに物故したゲオルグ・イッガースとの生前のつきあいが記載されていて著者がイッガースの主張に親しんでいたと推測されることからも、著者は意識して言語論的転回の起源をソシュールに置くイッガースの記述は採用しなかったのではないか、との印象さえ受けました。これは私の深読みに過ぎないのかも知れませんが、南塚氏の補論のソシュール理解は、南塚氏がブログで紹介している、言語論的転回やソシュール理論を批判ではなく否定する東洋史家の論文で参照され、その注記で「特に南塚(他2名は省略)の所論は筆者の転回理解にとって有用であった」と書かれ、それなりに影響が広まっているため、南塚氏が訳した本書でソシュールが言及さえされていない事態は、今後氏が編集委員の一人であるMINERVA世界史叢書の『知識と思想の世界史』の内容にも影響を与える可能性も考えられ、大きな意味があるのではないかと認識しています※1。イッガースの言明が本当にソシュールのものなのか、そこに誤解や解釈上の歪みはないのか、など言語学専門家による検証が必要ではないかと考える次第です。

近年の、学部生向けの総合的な歴史学方法論の日本語概説書籍で言語論的転回とポストモダンを正面から取り上げた書籍には、池上 俊一著『歴史学の作法』(東京大学出版会、2022年)、桃木至朗著『市民のための歴史学―テーマ・考え方・歴史像』(大阪大学出版会、2022年)などがありますが、桃木本では言語論的転回とポストモダンは「付録」に収録されていて「特別扱い」なところがまだありましたし、池上本では、他の分野と同列で本文中に収録されていた点で桃木本より一歩前進していたものの、著者の皮肉交じりの文言が散在し(著者の皮肉調は言語論的転回に対してだけではないが)、どうにも史学史上での位置づけが落ち着いたような感じは未だ受けませんでした。池上本でもソシュールは登場しておらず、この本で直接言語論的転回を論じている章はホワイトの”歴史とフィクション”という狭義の部分だけであって、実質的にポストモダンの史学史上の意味を意識した内容が論じられているのは言語論的転回もポストモダンも登場していない第一章「歴史の道筋」の方である点注意が必要です。また、岩波講座世界歴史01『世界史とは何か』所収長谷川貴彦氏の論説でも言語論的転回と文化論的転回が扱われていましたが、分量が少なすぎでした。この点では、本書ではかなり普通の記述となっており、ようやく言語論的転回とポストモダンがバランスよく学部生レベルの学術的史学史の中にナチュラルに埋もれて描かれる段階に来たような印象を受けました。この意味で、本書の日本語版の登場は、非常に大きな意義のあることだと個人的には捉えています(本書より少し詳しい言語論的転回とポストモダン史論概説としては、岡本充弘著『過去と歴史: 「国家」と「近代」を遠く離れて』 ‎ (茶の水書房 ,2018年)3-5章がお奨めです。この本ではポストモダンの前提知識のような位置づけでソシュールが解説されており(「思考は言語が決定する」とは書かれていない)、逆にニーチェの扱いは小さかった点には不足を感じており、ニーチェに関しては本書の位置づけの方が妥当だと考える次第です)。

※1 MINERVA世界史叢書の総論巻である『「世界史」の世界史』では、桃木至朗氏が執筆した末尾総論の章で「われわれは言語論的転回以降の歴史学批判を重く受け止めそれを直接取り上げるような論文も準備している」と記載されていることから、桃木氏が責任編集を務める『
知識と思想の世界史』に言語論的転回に関する論説が掲載される可能性があり、ここにイッガース流のソリュール解釈に基づいてこれを論駁・否定する(上記東洋史家の)ような論説が掲載されるような事態になってしまわないかと強く懸念しています。イッガースの記述の拡散を鑑みれば、できればソシュール言語学に詳しい言語学者や認知科学分野の言語学者などによるイッガースの記載の解析を期待したいところです)。

以下「言語論的転回とポストモダン」の節の末尾の文を一部引用します。

「時折行き過ぎがあったにもかかわらず、ポストモダンとそれに関する「カルチュラル・ターン」が、あらゆる歴史家に対して、文書やテキストは決して「それ自身で語りはしない」ということを思い起こさせるという利点があったことを認めないわけにはいかない。たしかに文書やテキストは歴史家によって解釈されるのであり、たとえ最も「中立的な」文書であろうとも、究極的には人間によって創られた人工物なのであり、何らかの前提や社会的圧力や、彼ないし彼女自身の時代の言語上の慣用によって動かされた人間の作なのである」「ポストモダンは、文学科や言語学科においては非常に影響力があるが、ほとんどの歴史学科においては、よくても一つの異論に留まっている。しかしジェンダー史や新文化史家の間ではかなり受け入れられており、新文化史家にとってポストモダンは、マルクスから抽出されたものに代わる一連の新カテゴリーを提供してきているのである」(p382)

著者は「はじめに」で、「前著の読者の中には、私が意図した以上に粗末に扱われていると感じた人もいるであろう分野について、近年及び近未来における発展について加筆した」(piii)と書いています。読者が粗末に感じた部分がどこかを知りたくて、前著も注文しました。またしても大変な長文となってしまいましたが、これまでの業績の積み重ねの上でのこととはいえ、本書のような巨大な内容をひとりで書くことは大変なことです。大変有用かつお奨めです。

(2)関連書籍

MINERVA世界史叢書『「世界史」の世界史』(ミネルヴァ書房、2016年)
 古今東西の世界観を扱った書籍です。複数の研究者が担当しているため、内容に統一感がありませんが、各文明世界の世界観のグローバルヒストリーといえるような内容となっていてお奨めです。

②有斐閣『歴史学入門』(1992年、 浜林 正夫, 佐々木隆爾編)

日本で本書に近い書籍としては、『歴史学入門 (有斐閣Sシリーズ 48) 』という七人の著者による概説書がありますが、各文明圏を網羅的に扱っている本書と比べると、だいぶ偏った内容となっています。古代中国ははぼ史記のみ、古代日本はほぼ記紀のみ、古代ヨーロッパはまったくなくて(ヘロドトスとトゥキディデスもなし)、中世ヨーロッパの年代記はわりと詳しく扱われています。中世イスラームの史学史が扱われていますが、15世紀までで、ハディースとかイブン・ハルドウゥーンの話題くらいに留まり、南アジアはまったくありません。近世以降はほぼヨーロッパ史学史で、現在の歴史学の部で日本の章があるくらい、という内容で、各文明圏を取り合えず扱ってみた、という、史学史のワールドヒストリーの萌芽的な段階の内容、といった印象を受ける書籍となっています。

③中国史の史学思想史
私が探したりないのかも知れませんが、日本語では適当な概説書が見つかりません。

3-1 佐藤正幸著『歴史認識の時空』(2004年、知泉書館)
中国史上の史学思想や方法論を、グローバルな基準(西洋基準でもあるが)で少しだけでも扱っている書籍としては、佐藤正幸著『歴史認識の時空』(2004年、知泉書館)くらいしか思い当たりません。これは概説書ではなく、西洋史学の歴史学方法論を中心とした研究書なのですが、内容は非常にエキサイティングです。ただし研究書なのでとっつきにくいのが難点です。

3-2 稲葉一郎著『中国史学史の研究』(京都大学出版会、2006年)
 本文だけで800頁くらいある分厚い研究書ですが、あまりに分厚過ぎて全然読めてません。目次を見ると、分厚いわりにメジャーな人物とその著作しか扱われておらず、『歴史の世界史」で言及されていたマイナー史家について調べようとしても載ってない気がします、、、また、中国史学以外の視点がなさそうで、比較史学史学的切り口を期待すると空振りに終わりそうな気がします。

④イスラーム史学史

4-1 大塚和夫「「オリエント」の歴史意識」(『岩波講座哲学 11 歴史/物語の哲学』所収(2009年)
 イスラーム史学史のうち、アラブの史学思想・方法論史を扱っています。20頁程度と読みやすく概説入門として有用です。

4-2 大塚修『普遍史の変貌 ペルシア語文化圏における形成と展開』(名古屋大学出版会、2017年)
 イスラーム史学史のうち、ペルシア史書に関するペルシア語史書を対象としています(一部アラビア語の歴史書もあります)。大部の研究書なのですが、登場する歴史書と著者は数十名と多く、稲葉一郎著『中国史学史の研究』とはだいぶ異なっています。しかし情報量が膨大でありかつ、やはりグローバルな比較史学史学の視点はあまり感じられないため、上記大塚和夫論説のような概説と比べると、ペルシア語史書の史学思想のエッセンスがわかりにくいかも知れません。しかしイスラーム史学史や中世ペルシア史学史にご興味を持った方には大変お奨めの書籍です。

④インド史学史
 探したこともないため、もしかしたら日本語でも良書があるのかも知れませんが、取り合えず知っている論説だけ挙げてみます。

真下, 裕之「インド・イスラーム社会の歴史書における「インド史」について」( 神戸大学文学部紀要 神戸大学文学部紀要 38 51-107, 2011-03 神戸大学文学部 )(PDF公開
 13世紀から18世紀末のインド・イスラーム社会で著された歴史書におけるイスラーム以前のインド史記述の解析です。58頁もあるPDF文書がwebで公開されているなんて感激です。『歴史の世界史』を読んだ後でいきなりこれを読むと細かすぎるかも知れません。インド史学史の上掲大塚和夫論説くらいのレベルのものがあると丁度いいので、そのうち探してみようと思います。


(3)気になった部分のメモ

※少し気になった部分のコメントメモ
p85「キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)が、一二五八年にバグダードを略奪」<-誤りでは? 
p95 資治通鑑に関し、「百科事典のように主題的に構成された書物を通じて、学識が役に立つ過去へと精製されるということを、強調したからである」の「主題的」の意味が少しわかりづらい(原文でもtopicallyとなっている)。『資治通鑑』は通常年代記として認識されているため、「主題的」が何を意味しているのかわかりにくい。
p150「他民族」<-誤植
p35-6 トゥキディデスの「話」(日本語文は括弧付、原文speech)は、全ての個所で「話」と訳さず、「演説」とした方が良かったのでは?
p82、カルチュラル・ターンは「文化論的転回」と括弧で補足した方が良かったのでは?

p377 アルン・ムンスローは、日本での従来の出版物ではアラン・マンズロウと翻字されています
p262 J.B.バリーはビザンツ学者と記載されている、、、、、、

※※日本語では検索してもほぼ出てこない情報
p25 Crónica Weidner ヴァイドナー年代記
p147 Ricordanze リコルダンツェ

(4)補記

言語論的転回とポストモダンに関し、ミネルヴァ書房の「MINERVA世界史叢書」の編集委員の一人である南塚慎吾氏が監訳者として参加している点に個人的には意義を感じています。というのも、ミネルヴァ書房MINERVA世界史叢書、特に南塚氏には、ポストモダン史論に関し懐疑的に感じられる部分があるからです。例えば、これまでのところ以下の懸念点がありました。

①MINERVA世界史叢書の総論『「世界史」の世界史』で、ヘイドン・ホワイトの生年を誤って記載していたこと(1928を1957と誤植)。こんな些細なことは単純ミスに過ぎない、と見なす方が普通かも知れませんが、私は、関係者が、誤りに気づかないくらいポストモダンに縁が薄い、との印象を持ちました。この印象は、②以降の諸点により、よりいっそう強まりました。

②南塚慎吾氏が翻訳したノーマン・ウィルソン著『歴史学の未来へ』(日本語版2011年、法政大学出版局)は、本書同様、歴史学方法論の概説書だが、訳者自身が言語論的転回とポストモダンを批判する補論を付けている(ポストモダンの肯定的意義の記載もあるが)。あとがきでも南塚氏は、「歴史学は国際的な交流を深めつつある。その交流にさいして、われわれは本書で紹介されているような歴史の方法論を理解していないと、さまざまな不都合を引き起こすことがある」、と、特に言語論的転回が受容されている英米との交流(原著が英語本であるため)のために訳したとも受け取れる文言を書いており、更に言語論的転回における言語論を「非現実的」だと疑問を呈している(補論におけるソシュール解釈の出典は、文言が類似していることから、補論末尾の文献一覧にあるゲオルグ・イッガースの『20世紀の歴史学』(英語版)だと思われる)。なお、ポストモダンの歴史認識について同じような認識を示している研究者は他にもいて、その認識の出典は、やはりイッガース『20世紀の歴史学』となっています(神田順司(哲学博士:ドイツ思想史) 「言語哲学と歴史認識論 : 現代歴史ニヒリズム批判のために」(三田学会雑誌、2015年、PDF公開)では、PDFのp4で「共通性の源泉は、記号の恣意性を基礎とするその言語観にある」とし、この部分の註釈でイッガースの『20世紀の歴史学』の2007年の新版を参照している)。

③南塚氏のブログで長井千秋氏の言語論的転回をソシュール段階から否定するようなかなり雑な論説(「研究ノート」)を紹介していたこと(こちら)。その一連の長沢論文の一つを掲載している雑誌のサイトでは、タイトルにある「言語論的転回」を「言語論的展開」と書いていて(こちら)、やはり関係者がこのあたりの議論に不案内であるように見えること。

④『「世界史」の世界史』の最終章の総論で、桃木至朗氏が、「われわれは言語論的転回以降の歴史学批判を重く受け止めそれを直接取り上げるような論文も準備している」(p413)と書いていており、巻末の刊行予定全16巻の一覧表によると、桃木氏が責任編集を務める『知識と思想の世界史』あたりにその論文が掲載される可能性が感じられるわけですが、長井氏の研究ノートに編集委員である南塚氏が言及したことで、長井氏が桃木氏が提示した論文著者に予定されているのではないか、との懸念が強まりました。

つまり、長井氏の、批判対象の研究者の引用文言に出典註もつけず(この部分は藁麦論法と思われても仕方がないような杜撰さです)、確証バイアスだらけ(本人も確証バイアスを自認している旨記載している)で都合のよい引用文だけをつないで論じたような、査読もない問題研究(個人的にはこれは研究といえるとは思わないが)が、ミネルヴァ書房MINERVA世界史叢書に掲載されてしまう、という恐るべき可能性が懸念されるわけです。以上の経緯があり、本書を読むにあたって真っ先に確認したのが、「言語論的転回とポストモダン」に関する部分だったわけです。著者のウルフがソシュールに言及しなかった理由は不明であって、実際にはウルフもイッガースと同じソシュール認識を持っている可能性もあるわけですが、少なくともMINERVA世界史叢書の編集委員である南塚氏が監修を務めた本書でソシュールが言及されず、「ポストモダンに特に影響を与えた」人物として、19世紀末~20世紀初頭に活躍した人物がニーチェ、ベンヤミン、ハイデッガーしかいなかったことの意味は、大変大きなものがあると考える次第です。懸念が解消されたわけではありませんが、本書で僅かながら薄まったような気がしています。

※この記事は将来出版販売企業のサイトに転載する可能性があります。他のサイトに転載した場合でも、オリジナルは本記事であり、転載されたwebサイトの管理企業は、自社サイトに転載された文章に関してのみ、削除変更等の権利を持ち、オリジナルである本ブログの本記事については一切の権利を有しません。販売サイトに掲載されるユーザーの書評に関する著作権にはグレーな部分があり(執筆者の著作権を認めないところもあれば、サイト企業とユーザー執筆者の権利共有とするサイト、ユーザーの権利が販売サイトの権利に優先するが、販売サイト自身も権利を持つ、とするサイトまでさまざまなパターンがある)、近年勝手に削除され、理由を問い合わせても返答されないパターンが出てきたため、その場合に、記事を執筆者自身が保有し公開する権利を確実にするためにこの文言を入れています。

この記事へのコメント