感想・紹介:池田さなえ著『笑いで歴史学を変える方法 歴史初心者からアカデミアまで』(2024年、星海社新書)

著者が主催している論文誌活動「Historia Iocularis(いお倉)」の理論編(解説本)であるとともに、歴史学を社会学的に描いた本です

本書のタイトル「笑いで変える歴史学」の語的インパクトから形成される、事前知識を持たない多くの読者の想定と期待からすると、カバー扉や「はじめに」での宣伝文は、

「笑いで変える歴史学」とはイグ・ノーベル賞の歴史学版です!、サンキュータツオ著『ヘンな論文』の歴史学版です!!

と強く押し出しておいた方が良かったのではないかと思います。

著者は「あとがき」で、このようなことは検討済であって『ヘンな論文』の二番煎じや劣化コピーは避けたかった、と解説しています。本書の究極の目的はそもそも、ヘンな論文の歴史学版の布教を行うということではなく、ヘンな論文歴史学バージョンが「歴史学をなぜ、どうして、どのように変えるのか」にこそあるので、歴史学版ヘンな論文 or イグ・ノーベル賞 だけが前面に出た宣伝文句は主旨を歪めてしまい読者にうまく伝わらない可能性がある、と懸念されたことは理解できます。しかし、本日時点のアマゾンレビューや他のSNSのレビューを読む限り、あまりうまく伝わっていないように見えます。これは南尾根から登るか、よりなだらかで迂回する東尾根から登山するかのような話ですから、どちらをとっても登山可能であるとともに課題が残ることも熟議の上での今回の選択となったと思われるのですが、現時点での反応からすると、少なくとも一般読者にはあまり伝わらなかったのではないかと推測されます。

イグ・ノーベル賞がノーベル賞を変えることはあまり期待できないとしても、科学界をすこし変えることはできるかも知れません。同様に、本書のキャッチコピーは、笑いで歴史学を変えるというより、(自称)イグノーベル歴史部門・いお倉が歴史学界と社会を(少し)変える、くらいの文言を前面に出してしまった方が実体に近くわかりやすいような気がします。

しかし本書では、どのように歴史学を変えるのか、そもそも変えなくてはならない日本における歴史学の課題や問題は何なのか、の話が先に来る構成となっているため、私の場合、想定している論文とは、歴史学版イグ・ノーベル賞&『ヘンな論文』なのだな、と理解できたのは、p251以降を読んだところでした。実際このような理解となった人は他にもいて、ブクログの2024年9月28日の投稿2つも似たような認識を示しています(ブクログはこちら)。

想定論文を明確に読者にinputした上で、①そのような論文の特徴とは何なのか、②なぜそのような論文が必要なのか、③それらがどうして歴史学を変えることにつながるのか、という論旨展開の方が、一般読者にとってはわかりやすく、受け入れやすかったのではないかと思う次第です。著者は刊行後の反応を受けてresearchmapに約16500文字(本書約30頁相当)の補論を掲載して(補論①/補論②/反論①)、主旨や構成をよりわかりやすく解説していることからも、本書の構成は少し複雑になってしまっていると指摘できるのではないかと思います。

本書は内容的には「学術コミュニケーション本」部分(第1,2部)と「笑えて考えさせられる歴史学論文」部分(第3部)とに分かれていて、あとがきを読むと、この両者を接合させるところに腐心したように見受けられます。ここにも本書の構成が若干複雑化した理由の一つがあるように見えます。しかし本書の構成の複雑さはそれだけではありません。この点著者はresearchmapの補論①(8/27投稿)で次のように解説しています(読みやすくするため引用文中の語尾を一部改めています)。

「「この本には複数のレイヤーがある」のです。ある人が読めば、「歴史学入門」にも読めるかもしれないが、ある人が読めば「おもしろエンタメ歴史本」に見える。しかしアカデミアの人間が読めば、余裕をかまして最初は笑っていられても、途中から急に「怖い本」に見える、そういう本です。そして著者が本当に意図したのは、歴史学界に対する挑戦です。歴史学や歴史ファン界隈を包含する「歴史」という大きなジャンルの世界で起こっている様々な問題の中には、アカデミアの側が変わることで解決につながるものも少なくないと思っているからです」

つまり、想定読者は①アカデミズムの方々、②「歴史学」に興味のある方、②歴史ファンの読者など、異なった属性を持つ複数の読者を想定し、それぞれが異なった反応を持つことが想定されている内容となっているため、このことで構成が更に複雑化したように見受けられます。部分部分での論旨は理解し易い一方、全体を一貫した論旨がわかりづらいのは、こうした諸点にあるように見えます。全体的な論旨がわかりづらくなった結果、それぞれの層の読者が、自分に関係があると見なす部分だけに反応してしまい、それに引きずられて本書全体の印象が決定づけられてしまった、ということが、アマゾンやSNSの読者レビューに表われているように見えます。著者は、researchmapの補論②(8/30投稿)で大きく異なる反応を見せた読者層を以下の3つに分けてコメントしています。

①アカデミズム史学の方、②アカデミズム側であるが、非歴史系人文学を専攻している大学の先生、③アマチュア歴史家のうち、学部時代に全く歴史学とは無関係の分野を専攻していた方

著者がこうした解説をしなくてはならなかったくらいには、やはり本書の構成には検討を要するところがあるように思えるわけですが、わかりにくい部分があるとはいえ、本書の内容自体が悪いわけではないため、否定的な感想に引きずられて本書が敬遠されてしまうとしたら、残念です。文章自体は読みやすいため、各章毎であれば理解はしやすい。しかし全体を貫く、タイトルに帰着する論旨は理解しずらい、ということです。

本書の帯文「エンタメとアカデミズムを架橋する新しいスリリングな歴史学」がもっとも本書の目指したところを表わしているよい文だと思うのですが、架橋することが目的だった筈なのに、一部の読者(或いは少なくない読者)は、自身に関する部分だけに強く反応し、本当は長編小説なのに短編集のように読まれてしまう結果となってしまっています。この側面からしても、架橋が(少なくとも現段階では)あまり成功しているように見えないため、今後も架橋の努力は続けていって欲しいところですが、著者はresearchmap(9/1)の投稿で、アマゾンの一つのレビューに対する反論文の末尾で「私はこれにこりて、これ以上一般向けの本を書くことはよそうと思います」と書いてしまっているのが非常に残念です。著者は、p175-6で「大衆の多数派が、もう全く異なる世界を作り上げているこんにちにあって、そしてそのような世界に棲むしかない大多数の研究者は、引き裂かれるような苦しみを感じているのではないだろうか」「このようなことは、恐らく研究者自らが声をあげることの難しい問題であろうと思われる。そしてそういうことは最高峰の方々には全く気付かれない(略)こういうことは、気づいてしまった人間がやるしかないのだと覚悟を決めた」とまで書いているのだから、もう少し粘って欲しいものです。

こうしたクラッシュは予見できたことです。例えば私が把握している範囲でも、最近の弥助問題で戦線に踏みとどまり続けた岡美穂子氏は、以前ミクヴェ・シンポジウム問題のおりは、直接市民と交流するのはもう無理で、今後は行政に間に入ってもらわない限りこの手の仕事は受けない、とブログ(今は閉鎖)で書いていましたし、弥助問題では平山優氏も出てきて直ぐに撤退していました。こうなってしまうのは、研究者が打たれ弱いという可能性もひとつありますが、それ以上に、池田氏の言葉でいえば、「大衆」のことを知らないがために、コミュニケーションの難しさと方法に無頓着だからなのではないかと思われます。研究者には、”大衆の中の王侯貴族的価値観を持つ者”(p175)が大衆全体なのだと見なす幻想があるといえるのかも知れません。西洋経済史研究者の小野塚知二氏は、こうした幻想に関し、『歴史学の縁取り方』(2020年(こちら))収録論説の次の一文で端的に表現しています。

真っ白な読者が、まっとうな歴史だけを読み、思索に誘われるという牧歌的な状況を想定するのは、重大な事実誤認ですらある」(p258)

しかし幸いにして、岡美穂子氏は、今回一度は離脱したもののその後復帰し、現在でも(弥助問題はもうカレントではなくなってきたからかも知れないが)SNSを継続していることは、一歩前進だと見ています。

大衆(市民)との交流で一つ参考になると思われるのは、 時代考証学会の活動です。 彼らの活動の在り方の一端は、時代考証学会の編著『戦国時代劇メディアの見方・つくり方: 戦国イメージと時代考証(2021年 大石学 ・時代考証学会編)』(こちら)で詳細を知ることができるのですが、ここでは市民にアンケートを取り、そのアンケートを分析することで市民の状況を知る、或いは時代劇という、アカデミズムと市民が直接ぶつからない、交点にあたる素材を用いた交流会で、間接的に市民に接近する方法をとっている※1ため、直接激突してクラッシュするような事態を回避しています。市民の分析は、アンケートを通じて市民に直接語らせた結果を用いているため、市民側も納得できる方法で分類・分析されている、という点が本書との違いの一つです。一方本書におけるアマチュア歴史家の分析は、著者の観察にのみ基づいて分類・分析されているため、一方的な分類・定義付けが権威的権力的に受け取られ、アマチュア歴史家及びそのアイデンティティを共有する方から反発を喰らってしまうことになったのだと思われるわけです。この意味では、まだまだいくらでもやりようはあるし、本書の試みは今後のたたき台として有効活用できますし、時間はかかるかも知れませんが、将来的に誰が担うにせよ社会学の調査手法を用いた学術的な統計的な量的調査やヒアリングやアンケートなど質的調査・分析に展開してゆくことが期待されます。著者自身は一般向けの本を書くことはもうやらないとしても、書籍や活動をオーガナイズするなど一般を含む活動を続ける糸口はいくらでもあるように思えますので、どうか思いとどまって欲しいものです。

※1こうしたエンタメを通じた間接的なコミュニケーションアプローチとしては、最近のものでは、西洋中世史の研究者たちによる「日本の大衆文化におけるヨーロッパ中世主義の受容と展開」研究のフィードバックオンラインセミナーや、ビザンツ学者仲田公輔氏の「〝中世ヨーロッパ風〟ファンタジー世界を歴史学者と旅してみたら【『葬送のフリーレン』編】」のweb記事などがあります(こちらの記事(資金視聴したヨーロッパ中世主義関連のセミナ)で最近視聴したオンライン動画やweb記事の感想をまとめています)※

少し話がそれますが、今回の弥助問題で良い対応をした人の一人が呉座勇一氏だと思います。彼は既に一般交流用SNSを辞めていることもありますが、議論が断片化し、断片だけの流通と反論という不毛な事態に陥りやすいメッセージ型のSNSで参戦するようなことはせず、じっくり議論を見極めたうえで、さまざまな反論やいつまでも続くような反論への回答を盛り込んだ形で、弥助問題の全部に対応しようとせず一部のテーマに限った小論にまとめてwebで公開しました※2。論争を観戦していた読者のうち少なくない人々が呉座氏がまとめた部分についてはある程度納得し、少なくともその部分に関する不毛なノイズは大幅に低減させることができたのではないかと思います。岡氏や平山氏とは対照的な対応でした。SNSで(自業自得とはいえ)酷い目にあっただけあって、取り組み方が経験を踏まえた対応となっているように感じました。SNSで逐次応答すると、議論の断片化だけではなく、まとめサイトで恣意的なまとめ編集をされかねないリスクもあり、一方では研究者側も好意的なツイートばかりにすがるようになってしまい、結果的に党派性の高い分断が助長されてしまいます。よほど重要な件以外はSNSで即時反応せず、まとめてweb記事にして対応すべきことです。このあたりは企業の顧客トラブル対応と同じはずです。こうした炎上事例では、研究者の方からの「手弁当でやるようなことではない」との主張がよく見られますが、炎上してトラブルになってしまったからには少なくとも今回の呉座氏くらいのことはすべきでしょう。そもそもこうしたトラブルにならないように普段から大衆とのコミュニケーションを業務の一環に組み込むようにしていく必要があるわけで、本書の主張もこの点にある筈です。そうした取り組みが甘かったから大衆とのコミュニケーショントラブルが起こってしまうわけなのですから、「手弁当では、、」とボヤくことになる前に、日頃のトラブル対応や、そもそもトラブルを起こさないようにする取り組みをまずは見直す必要があるのではないでしょうか。この点でも、時代考証学会や大貫・仲田氏はじめ、ゲームや漫画などエンタメを介した業務としての取り組み推進事例は役立つ筈ですし、本書でも、アマチュア歴史家のタイプ別分類において主に若手世代から構成される「SNS・イベント活用型」に分類される方々とのコミュニケーションは比較的摩擦なく成り立つと見ていて交流の糸口となる参考情報を提示しているわけですから、今後こうしたセグメントを深堀してゆくことが期待されます。

※2同様のことを岡美穂子氏も途中から第三者のブロガーを支援する形で史料を網羅したブログ記事(弥助関連史料とその英訳 / YASUKE in historical materials)の作成に協力し(岡氏が書籍にない初訳史料を掲載している)、これも沈静化に大きく影響したように見えました※

呉座氏のweb記事にあるように、全てに回答することはできませんしその必要もありません。上で紹介した、時代考証学会の活動も、そこに大衆との交流についての決定的な正解が得られるわけではありません。それどころか、雨垂れの一滴程度の参考にしかならないかも知れませんが、それでも貴重な参照点の一つにはなる筈です。

SNS等で本書に対し否定的な感想やレビューに接した場合、そうしたレビューアは上記読者の分類パターンのいずれかに分類される可能性が高いため、まずはその点をご理解した上で本書に向き合って欲しいと願う次第です。ただし著者の文体にも一部問題がないわけではなく、例えば私が気づいたところでは、p95の「数千冊」は煽りともとれる非現実なむちゃ振り表現であるところに強い感情(悪意とも受け取れる)を感じました。ここは現実的な数字として「数冊」かせいぜい「十冊程」としておくべきだったと思います。明確な表現となって露呈しまうと、他の部分でなんとなく語気の強さを感じていた部分が、読者の気のせいではなく、著者のネガティブな感情に基づくものだとの印象が確信化されてしまうため、ここは気を付けるべきだったと思います。本書の「はじめに」で記載されている「いお倉某重大事件」でかなり精神的にダメージを受けた時期に本書を書いたため、たまっていた感情が語調に顕れてしまったのだと推測されるわけですが、読者によってはそこは理解し割り引いて読んでくれる方もいるかも知れない一方、その感情に反発を覚えてしまう読者も出てしまうことは避けられないと思われます。

また、他の書評サイト(ブクログ)で著者たちが発刊推進中の論文誌『いお倉』が「現在頓挫が確定した」と書かれているのですがこれは本当でしょうか。だとしたらこれも残念です※3。ただし個人的には、最初から論文誌とするよりは、イグ・ノーベル賞のような無償金の賞(サンキュータツオ歴史学章とか)の設置の方が実現ハードルは低いのではないかと思うので、雑誌が駄目でも賞などを検討しても良いのではないかと思いました。隔年で開催するなどして無理のないコストの範囲で少しづつ耳目を集めるような方法もありえるような気がします。著者は、『いお倉』の投稿案内「投稿をお考えの方へ」の末尾で、いお倉の挑戦について「これは、いわばやけくそです。滅びを前提とした、そのつかのまの慰めです」と書き、本書の中でも「滅びを前提とし」た笑い(p177)と記載しています。どうせ滅ぶと考えているのであれば、そんなに急がなくてもいいようにも思えます。エンタメ系を介しての大衆との間接的取り組み事例のように、まわりくどく時間がかかりそうではあっても、各所に局所戦線を設けてじわじわと対象を包囲してゆくようなアプローチでコミュニケーションを図ってゆくのでも良いのではないでしょうか。

※3ブクログの9月3日の投稿は、私が見た中ではもっとも厳しい書評となっていますが、「著者の雑誌は、任期のない職についている研究者、定年退職を迎えた名誉教授など、比較的恵まれた研究者だけが「余暇」として投稿することのできる有閑雑誌になるのではないだろうか」とのコメント部分については、私も同様の予感がしています。しかし柿沼陽平著「中国古代禿頭攷」(『中国文化の統一性と多様性』汲古書院、2022年4月,451-488頁、こちら)という、ハゲに関する論文はヘンな論文に該当しそうで、雑誌は無理でも隔年開催や、海外論文まで手を広げれば、賞ならばいけそうな気がします(海外論文の場合、受賞後雑誌向けの正式な翻訳を検討すれば良く、選考時には翻訳する必要はないため、取り組み易いように思えます)※

最後に本書の内容を以下に整理した上で残る④~⑥の論点について少し述べて終わりたい思います。以下はあくまで私の内容理解上の分類です。①~③はここまでの記載部分に相当します。

①歴史学版イグ・ノーベル賞 or ヘンな論文のススメ
②日本の歴史学界の現状と問題
③アマチュア歴史家の分類と分析
④「笑い」と「怒り」について、&「無感情の文学」
⑤論文の形式面(取り組み方)での面白さ、&「無感情の文学」
⑥著者の半生記的記載

④笑いと怒り、「無感情の文学」

著者の提案する「笑い」とは、この用語の解釈の幅が広いため、読み手に混乱を生んでいるように思えます。あくまで私個人の語感でいえば、「面白み」といったものに該当するように思えます。第3部ではこの「笑い」を追求していて、著者自身の品川弥二郎の研究事例や架空の研究対象を大真面目に論じた研究パロディ書籍『鼻行類』事例が紹介され※4、そうした書籍とその著者の存在や科学論文調の文体(無感情の文学)含め「大真面目にふざける」ことを「面白い」と思う感覚、そうした笑いに結びつく面白さや遊び心が怒りに満ちた世の中を中和し寛容や余裕をもたらす、といったようなことが論じられています(ベルグソンやアガンベン、イヴァン・ジャブロンカが登場するのはこの部分)。イグ・ノーベル賞やヘンな論文が面白いのは何故だろう、ということを哲学的に分析しようとしている部分ですが、ここは少しまとめきれていないように感じました。

※4 私は未読ですが、早川書房の『異常論文』(2021年)という架空論文集は、似たようなコンセプトのようです。

⑥著者の半生記的記載

本書に批判的な人も面白く読んでいると書いている、書評子の評価が一致している最大公約数的な部分です。アカデミズム界における境界人としての著者の立ち位置の辛さが詳述されているのですが、この部分はどこの業界でも多かれ少なかれ見られるもののように見えました。例えば、企業において、「日本国内の現実にまったく無関係でいられる人々」(p175)や「最高峰の方々」(p176)に関する部分では、本社中枢で勤務し続けられる社員たち(中高一貫校からのK大出が多かったりする)を、直ちに連想しましたし、「気づいてしまった人間」「身を引き裂かれるような苦しみを味わっている」(p176)人々には、子会社や地方支社に出向する社員(地方国立大出が多かったりする、ただし中年以降のリストラの場合はこの限りではない)を連想してしまいました。こうした企業や各種団体組織における異業種横断的な現象を文化人類学的社会学的に調査分析すると面白いと思うので、大学含めたそうした学術的調査をどこかでやって欲しいものです。社会問題化した現象(リストラ問題とかマミートラック問題など)の調査研究はあっても、企業組織の日常社会の在り方についての研究はほとんど聞かない気がします。私が知らないだけかも知れませんが。企業であっても、本社と子会社や支社(海外含む、米本社に対する日本法人のパターンなども含む)との関係、本社と工場の関係など、一企業内でも組織やインフォーマルな集団の間で発生してくる可視化しがたい線引きが、さまざまなストレスや抑圧、差別的な扱い(昇進・評価・報酬・機会・業務等)に結びつく現象など、異業界横断的に見られる多様な現象は、学術的に調査解析する価値はあると思うわけです。著者の半生記は、そうした種類の著者個人の質的調査の大学事例のひとつとしても面白く読めました(2026/03/May:本件に関連する記事を最近見つけました:食うために理系大学に進むのが支配階級の再生産って言われても困る。以下一部を引用「東京で出会う上級ホワイトカラーの人々からは、単に学歴が高いだけでなく、洗練されたハビトゥスが物腰や言葉遣いにまで感じられる。これは私の偏見だが、上級ホワイトカラーの世界では、そうしたハビトゥスのひとつひとつまでもが「仲間として一緒に働いていけるかどうかの」評価の対象となっていて、門地を問うているつもりがなくても結果的に門地を問うのに近い選別が行われているのではないか、という気がしてならない」

以上本書は、歴史学を社会学的に描いた本としてもお奨めです。


えらい長文となってしまいました。本書を読もうかどうかと参考となる書評を探していて本記事に出くわした方の場合は、本書を準備中の著者のインタビュー記事である、「ほとんど0円大学」の「歴史学者が笑いにこだわるワケ。新しい学術雑誌にこめた思いを京都府立大学文学部の池田さなえ先生に聞いた。」の記事の方が、著者の動機ややりたいことが端的に述べられていて大変有用でお奨めです。また、この中で、著者は結構重要なことを述べている部分があるため、最後にそれを紹介して終わりたいと思います。

著者は、インタビュアーによる、「物語としての歴史と大学で学ぶ歴史学は別物」であり、「どういう人が歴史学に向いていると思われますか?」との質問に、次のように答えています。

「理系から文転してきた人が何人かいますが、そういう学生の方が歴史学のおもしろさをわかってくれる傾向はあります。ちゃんとデータを揃えないと何も言えませんよ、そしてデータを論理的に組み合わせないといけませんよ、ということに慣れている学生たちなので。あくまで一つの傾向ですが」

私は常々、歴史学の成果物の購買層の一部に、論理的思考を重視するタイプの人々を積極的に取り入れるような活動をしてみてはいいのではないか、と思っています。論理的思考を重視するタイプの人々というのは理系に限ったわけではなく、ざっくり言えば就職試験で使われる適正診断テスト玉手箱で合格するような論理的思考ができるタイプの人々です(玉手箱は技術職向けの適正診断テストだと思っている人もいますが、技術者向け適正テストはCABの方で、玉手箱は企業全般向けのものです。なお、ここでは歴史学科の入試に玉手箱の利用を提案する、というような話ではありません。あくまでタイプの話です)。別の言い方をすれば、本格推理小説好きタイプです。例えば、ミステリー好きと歴史好きの方のうち、物語りに惹かれるタイプと論理的思考や調査に惹かれるタイプの人がいます。だいたい次のように整理できるのではないかと思います。

ミステリー小説好き ≒ 物語としての歴史好き
新本格推理好き ≒ 歴史学としての歴史向き

というような傾向分類です。『名探偵登場』という、推理小説の多数の有名探偵たちが一同に会するミステリーかつパロディ映画がありますが、この作品の大半は、次々に登場する名探偵たちの登場場面に費やされています。そのような構成となっている理由は、実は名探偵モノのファンの多くは、探偵のキャラクターや、彼らの雰囲気、特に探偵が颯爽と登場する場面と推理を披露して解決する場面の雰囲気が好きなのであって、実際の調査や実証と論理的推論による謎とき・論証には興味がないのだ、と皮肉っているわけです(日本では、東野圭吾が『名探偵の掟』で同様の皮肉をぶちまけてます)。人物のキャラクターや物語が好きなのであって、調査や実証にはあまり興味がない、という点が、物語としての歴史好きなタイプの歴史好きと共通しています。一方新本格推理好きは、論理性を最重視していますから、歴史学研究と共通点があります(ただし、新本格は論理を重視しすぎて「論理だけ」となってしまい、実証や、モノによっては現実性さえもが置いてきぼりにされ衒学的となってしまっているものもあったりして、この点は論理ばかり重視して実証が欠けてしまっているポストモダンの中の極端な主張に近いものがあります。実証という点で地道な調査や科学捜査は必須であるため、ミステリー分野において、歴史学に相当するものは、正確には科学的な調査と捜査を備えた新本格推理、ということになるものと思います。結局はホームズという、科学捜査と論理的推理を併せ持った推理小説の原点と歴史学は近いのだということができると思います。

インタビューに戻りますと、著者は答えて、「歴史物の漫画やゲームから歴史が好きになって、それで大学で歴史を専攻した人たち」をどのように扱うかに腐心している点を述べていますが、そうした学生たちは、受験時の指導で高校や予備校の指導者や相談員から、厳格に、「物語としての歴史」は歴史学科ではやらない、と生徒に必ず伝えるようにするか、或いは物語りとしての歴史がやりたい学生のために、歴史哲学科か文学科など、行き先窓口を歴史学業界側で明確化してもらい、その方針に沿って受験指導をしてもらうように広く周知する、といったようなことをやるべきではないかと常々思っています。とはいえ、私の受験時代と大学時代のことを考えますと、第一志望で歴史学科に入学して来る生徒は少数派で、多くは同じ大学の他学部の滑り止めだったり、他大学のすべり止めだったり、進振りのあるところですと希望の学科に進めず強制的に振り分けられて「落ちて」きたりした人だったりして最初から歴史学科を目指した人は実は少数だったりするので、受験時に指導しても効果はあまりないかも知れませんが、、、、

ただいよいよ人口減少が本格化し、滅びを前提と意識するまでとなっているのであれば、歴史学を支えるリソース※5の票田を物語り好きから調査と論理にシフトする方向に注力し始めてもいいのではないかと思います。まあ、、選挙と同じで、ある政策を強力に打ち出すことで、新規票田を獲得できる可能性が開ける半面、従来の支持者のうちのいくばくかの票田を失う、ということは普通に想定できるため、なかなか踏み出せないところはあるかも知れませんが、このままでは滅ぶということであるなら、身を入れて検討する必要があるのではないかと思います。これは企業でも普通にあることなので(新製品のコンセプトが斬新過ぎて従来顧客が離れるなど)、調査会社と協力して市場分析をしてみてもいいのではないかと思います。(将来的に全振りを目指すとしても)当面は全面的にシフトする必要はなく選択肢を増やす方向で、調査・研究をアピールする啓蒙書をより多く出すとかでもいいですし、例えばエンタメとの協業であれば、過去の物語を描いた歴史小説ではなく、過去を調査するタイプの歴史ミステリー小説との協業に力を入れてゆく、などというような話です。後者の代表的な例がジョセフィン・テイの『時の娘』です(とはいえ、『時の娘』でも、探偵役の刑事が、最初にリチャード三世の肖像画を見て”悪人顔ではない(犯人面ではない)”と見込み捜査を開始し、無実前提というナラティブで調査(捜査)を進めてゆく部分ではナラティブ問題にひっかかっているところがあるため注意が必要です。この点歴史を舞台とした探偵小説の形式をとりながらも、探偵の推理(ナラティブ)が、実証により相対化されてゆく結末を迎える『薔薇の名前』の方が今の時代の歴史学方法論として相応しい筈なのですが、この次元で『薔薇の名前』が語られるのが少ないようなのが残念です。NHK100分de名著『薔薇の名前』では、ラストの推理の相対化を「がっちょーん」「ちゃぶ台返し」と司会の伊集院光さんが表現していましたが、この相対化は、小説の舞台である中世末期、中世的論理(ナラティブ)と、調査と実証からなる近代科学的合理性という新しい論理(ナラティブ)との谷間の時代であるからこそ、中世盛時や近代到来以後には自明であるがため見えづらくなってしまう双方の時代を根底から規定するナラティブが双方ともに相対化され、大文字の「ナラティブ」というものが一瞬ズバっと照射され浮かび上がる、その瞬間を描いたものなのだ、という意義があまり強調できずに終わってしまったのが残念なところではありました)。

※5 ここでのリソースとは、研究機関と研究活動、及び研究者を支える資源のこと。研究者著の著作物の購買者及び歴史学科へ進学し大学運営資金を提供する学生のこと

ちなみに、私のサイト「古代世界の午後」は、サイト開始当初から、サイトの目的は、この、歴史における調査の面白さのアピールにありました。記事に大量の小説とか映画の一覧や記事が掲載されているため、私が物語り好きだと思ってしまった訪問者も多いのかも知れませんが、、、わたしのサイトの記事を全部チェックする人は誰もいないと思いますが、それでもある程度の記事を訪問すれば、わたしがやっていることは、要するに調査であって(「調べもの」「情報収集」という言葉をかなり頻繁につかっています)、物語のアピールではないことはかなり明瞭にわかるのではないかと思うのですが、、、

サイトの立ち上げ当初にもっとも多かった記事は遺跡訪問記で、学術的な遺跡調査ではありませんが、どういうところにどんな遺跡があって、どういう風にいけば良いのか、という情報をひたすら現地訪問して調べていく、ということをやってますし、歴史映画情報にしても、どんな映画があってどのような内容で、衣装や景観の再現度はどんな感じでその根拠となる資史料や遺物や遺跡は何々で、その映画成立の時代・社会的背景は、、みたいな話が殆どで、物語りとしての面白さを論評しているものは殆どない筈です。もちろん例外はありますが、そうした話を声高に書いてこなかったのは、基本、歴史は物語りだと自明に思ってしまっている人がほとんどな中で、調査や方法論をアピールするとあまりにマニアックに思われるだけで、「物語ではない」というもっとも重要な点は理解されないままで終わってしまう可能性が高いことを懸念してあえて(あまり)書かないようにしてきたわけです。ただし調査の目的については、「このサイトについて」の「歴史に対する方法論」末尾で「既存の歴史像を常に揺さぶり続けることが、人間の 思考と 認識を進化させることができる、これが人類の未来に対する歴史学の役割であると考える次第です」と明確に書いています(「既存の歴史像」は「既存のナラティブ」でもよかったのですが、ナラティブという用語がメディアで一般化しはじめたのはウクライナ戦争開始した以降なので一般にわかりやすい「歴史像」としていました。学生時代は「系列化」とか「筋書き」「ベクトル」といった言葉を使っていました。ポール・ヴェーヌや神山四郎など分析哲学系・唯名論系の史論の論者が使っていた用語です(P・ヴェーヌの「筋書き」はフランス語「レシ」で、英語の「ナラティブ」に相当する))。

歴史を暗記モノだとして敬遠する人が多かった時代には物語でひきつける必要があったわけですが、もはや世界じゅうで過剰なまでに物語があふれ返る時代となり、むしろ過剰な物語は政治的社会的弊害を生むまでに至っています。既に歴史や歴史学における物語りの問題は主題化され理論化され、いまはもう定着の段階に入っているように見えます。そろそろ、歴史学だけではなくアウトリーチ含め物語の看板を下ろし、或いは脇に寄せて、「歴史は科学だ」という表面的な言葉ではない、真に科学的調査と同様の論理性実証性再現性(限定されているとはいえ)客観性を有する歴史学と歴史というものを広く社会にアピールし、物語りの方には歴史哲学や歴史評論、歴史エッセイ、倫理道徳名前はなんでもいいのですが、物語りを専業で行う分野を歴史と歴史学とは別に分けるフェーズへ向かう段階なのではないかと思います。

※メモ いお倉のサイト、日付の記載は和暦だけではなく、西暦も併記して欲しい

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一万三千字越え、、、、アマゾンレビュー用に6000文字以下くらいにスリム化したいのですが相当大変そうです、、、、、、、、

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