歴史学の方法を、警察による捜査や裁判に例えることはしばしば目にします。本書がそうしたタイトルであることと、著者のギンズブルグがその後歴史学方法論の本を出版し、ヘイドン・ホワイトとの間で方法論論争を展開したことから、本書も歴史学方法論の本だと思い、読んで見たものです。しかし少し違った本でした。本書は、20世紀後半のイタリアにおいて「鉛の時代」とされる、左右テロが激しさを増した時代の大きな事件の一つ、フォンターナ広場爆破事件(1969年)に関連する事件※の裁判に関する書籍でした。
※フォンターナ広場爆破事件の実行犯の一人とされる鉄道員ジュゼッペ・ピネッリが、警察署の取り調べの際警視ルイージ・カラブレーシの執務室の窓から転落して死亡した事件に関し、左翼組織<継続闘争>がカラブレーシを批判するキャンペーンを実施。カラブレーシは<継続闘争>を中傷誹謗で告訴し裁判のさなか、カラブレーシが射殺された事件※
この事件の首謀者である<継続闘争>のリーダーアドリアーノ・ソフリ(1942-)が射殺事件の黒幕として逮捕された裁判で、ソフリの友人であるギンズブルグが後日裁判文書を読み、問題点を暴き出し、裁判を批判する目的で著したのが本書、ということが読み始めた途端にわかり驚きました。基本的には、「歴史学者が裁判資料を読み解く」という書籍です。裁判文書の読解とギンズブルグの分析がえんえんと続く書籍となっています。本書は、約130頁の「歴史家と裁判官」本文と55頁の「後記」とからなり、「歴史家の歴史史料の読み方と裁判官の裁判資料の読み方、史資料を読んだ後の両者の振舞の違い」との観点から歴史学と裁判の共通点や相違点を検討した章は「歴史家と裁判官」本文19章のうちの2つの章、2章と18章だけが歴史理論に関する部分で、頁数にして19頁(2章が8頁、18章が11頁)だけでした。この点期待外れであり、書いてあることもそれほど凄いことが書いてあるわけでもありませんでしたが、基本的なことは書かれているため、以下に少し整理してみました。
(1)2章(p17-24)では、裁判官と歴史家を比較する事例が時代ごとに列挙されています
①18世紀 歴史家は、裁判官と同様証拠や証言の公平な評価が可能である、とする(byイエズス会士アンリ・グリフェ、1769年)(18)
②19世紀初 歴史家は、裁判官のように歴史の方向性が正しいかどうか公正な判決(判断)ができる、とする(byヘーゲル)(18)
③19世紀末~現在まで 政治問題に関し、倫理的道徳的判断(有罪か無罪か)を資料に基づき歴史家が行うことができる(19)
以上は裁判官と歴史家には共通点がある、との見解です。これに対して次の④は異なる見解となってきます。
④ ③のような政治問題に関する倫理道徳的審判者としての歴史学(道徳主義的歴史叙述(21))から離脱を試みたのがアナール派だと指摘され、以下のマルク・ブロックの著書が引用される。
「ロベスピエール派の人々も、反ロベスピエール派の人々も、お願いだ、どうかただひと言、ロベスピエールとは何者であったのかを言ってくれたまえ」(ブロック『歴史のための弁明』からの引用)
この引用に続けてギンズブルグは、「「裁断すべきなのか、理解すべきなのか」というディレンマを前にして、ブロックはためらうことなく後者を選択したのであった」(20)と記しています。
⑤20世紀後半に入り、証拠や証言といったものは「表象」であって、直接真実を表わすものではない(※本書では使われていないが、ここは「言語論的転回」を意味している)、とされるようになり、証拠や証言を素朴に信じるのは素朴実証主義として排斥されるようになった(22)。
証拠に到達するのが常時可能ではない、という段階となった現在における、歴史家と裁判官とはどのような関係といえるのであろうか? というのが、本書の主題の一つだとされて2章は終わっています。
(2)18章では、証拠と証言による事実の復元と再構成に関し、裁判官と歴史家の相違が検討されています。
歴史家の再構成について3つの例が挙げられ長々と論じられますが、ポイントはそれほど大した話ではありません。即ち、証拠や証言は断片的である。なぜなら、裁判の場合であっても被告の行動すべてが録画され、それを裁判官が検討できるわけではないから。そこで証拠を解釈するため、あるいは証拠の空白を埋めるためのコンテキストが導入される、例えば以下のように(以下下線部がコンテキスト、⇒の先が、コンテキストに影響された判決)。
〇戦争中の行為であり、被告の行為は犯罪と見なされるべきではない(文化的コンテキスト)⇒ 従って判決は情状酌量の余地がある
〇被告が所属する文化的慣習では〇〇することは犯罪とは考えられていない(文化的コンテキスト)⇒ 従って判決は情状酌量の余地がある
〇被告の行為は経済的な苦しみから脱却するためのものである(経済的コンテキスト)。⇒ 従って判決は情状酌量の余地がある
〇被告の精神状態は正常ではなかった(生物的コンテキスト) ⇒ 従って従って判決は情状酌量の余地がある
歴史家は、こうした、ある複数の証拠に対してコンテキスト※を適用することで一貫した体系的な説明を行い、「論理上の証拠」を導きだすが、それはあくまで可能性に留まる。しかし裁判官の場合は「論理上の証拠」で判決を下すわけにはいかない。にもかかわらず、今回のソフリの裁判では、決定的な証拠がないのにも関わらず、裁判官が恣意的なコンテキストで証言や証拠をつなげて(中には証言を捏造さえして)「論理上の証拠」を導きだし、その「論理上の証拠」に基づいて被告を有罪としたわけであって、この裁判は無効であり被告は無実である、と著者の主張が展開されてゆきます。著者は最後の方で以下のように批判しています。
このようなやり方は「単なる可能性の平面から事実確認の平面へ、つまりは条件法から直接法へ、暗黙のうちに(しかも不当にも)滑り込んでいくことを意味している」(p139)
※この部分のコンテキストはナラティブを意味していると考えて良いと思います。
裁判官と歴史家の比較は以上の内容で終わりです。それほど大した話はしていませんが、日本でも自白の強要や、証拠の捏造、情状酌量や刑期を取引に罪を認めさせるケースなどが問題視されている事件が数あることからも、歴史家も裁判官もナラティブを活用している点では同じですし、歴史家は判決を下すわけではなく、可能性を指摘するにとどめる、ということばかりではなく、一部の歴史家とはいえ倫理道徳的審判者として道徳主義的歴史叙述を行ってきたことは事実であり、歴史家が可能性だと思って書いた記述だとしても読者の方では真実の歴史だと受け取って史実だと振り回す現象は非常によく見られるものです。
18章では、歴史家がコンテキストを用いた記述の例として以下の作品を例に解説されています。
①オーギュスタン・ティエリ(仏)の「真正なる記録にもとづいたお人好しジャックの真実の歴史」(1820年)
②アイリーン・パウア(英)『中世の人々』(1942年)
②ナタリー・ゼーモン・デイヴィス(米)『マルタンゲールの帰還』(1983)
①は、10頁程度の小品で、古代末期から20世紀に及ぶ長大な歴史を<お人よしジャック>という一人の架空の農夫を一貫した主人公として登場させ歴史を語らせる手法をとっている作品とのことです。貧困と圧制に苦しみ続けた下層民の歴史を描くために、通時的コンテキストに従って史料を配置する手法をとっているそうです。これに対して、14世紀末頃に実在した一人の人物の生活を描いた『中世の人々』では、史料の空白を、共時的コンテキストで埋める、という手法をとっており、対照的な歴史叙述として紹介されています。パウアの手法は、上述のコンテキストを「論理的証拠」として活用する裁判官の方法に近いものとして論じられていることは明らかです(パウアの手法=裁判官の手法だと書かれているわけではないが)。
これに対して、③の『マルタンゲール』では、空白部を埋める場合にあくまで可能性として断っている点が強調され、上述の裁判官と歴史家の比較で歴史家の特徴とされた、「可能性にとどめる」ことが強調されています。著者は以下のように書いています。
「デーヴィスはパウアよりもはるかに用心深くて、確証された真実と可能性とをはっきり区別しようとしており、記録作業の欠落部分の補充箇所を直接法によって隠蔽してしまうようなことはしないで、条件法(あるいは「おそらく」とか「たぶん」といった言葉)でもって示そうとしている」(p137)
本書における、歴史方法論に関する要点は、私にとっては以上のような理解です。ところで、ティエリの「真正なる記録にもとづいたお人好しジャックの真実の歴史」には大変興味を持ちました。というのは、私も昔、カルパチアからモルダヴィアあたりの農民の一家の家系の、紀元150年頃から1800年頃に至る歴史小説を夢想したことがあるからです(ずっと農民であるわけではなく、途中で遊牧民の襲撃により移住したり、商人として食つなぐ世代があったりしながら、ほとんどの世代はカルパチアとモルダヴィア付近で暮らすという長編小説の設定。なお、この時点では「お人よしジャック」が10頁の小品だとは知らなかった)。どうしても読みたいと思い、検索してみたところ、ネットでPDF公開されていることがわかり、10頁しかないことは拍子抜けでしたが翻訳機にかけてざっと読んで見ました。
Augustin Thierry:Historie veritablede Jacques Bonhomme , d'aores des documents authentiques
〇原著スキャン版PDF(こちら)
〇原著画像版PDF(こちら)(p130~)
スキャン版を翻訳ソフトにC&Pしたところ、一部の文字が読み取り切れなかったので自動翻訳が粗くなってしまったのですが、だいたいの大意は理解できました(転写に失敗した部分は手動で修正すればよりちゃんとした翻訳となった筈ですが、そこまでするのも面倒だったということです)。その結果、小説というより、小学生向けの歴史物語的な感じの作品だとの印象を受けました。当初深沢七郎の歴史小説『笛吹川』のようなものが、1500年くらいの大長編で描かれているのかと想定してしまったのですが、さすがにそういうものではありませんでした。しかし、今回も、私が考えるようなことは、たいてい誰かがとっくに考えているのだ、とまたしても思いました。概要がわかったため、優先度は低いのですが、そのうちいつかは転写失敗部分を修正して自動翻訳の精度を上げてよりちゃんとした体裁として読んで見たいと思っています。
ところで、本書のそもそもの主題であるソフリは、著者たちの裁判やり直し運動もむなしく、1990年の判決の通り、22年間刑に服し、2021年に出所したとのことです。
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