(1)概要
日経新聞社を退職された岡島稔氏がブログ「アラジン3世のバイトルヒクマ(知恵の館)」でアラビア語版からのタバリーの翻訳を行っていることを知ったのははっきりいつとは記憶がないのですが、2014年頃のことではなかったかと思います。これがKIndle版電子書籍として「タバリーのシャーナーメ」という題名で出版された(上巻・下巻)のを知ったのは2018年頃だったと思います(Amazonの出版日時を見ると、ブログで連載を開始した数か月後に電子版を出版してたことがわかりましたが、気づきませんでした。『タバリーのシャーナーメ』の下巻がササン朝のパートとなっています)。この電子版は購入しなかったのですが、理由は、サンプルで読める目次を見る限り、英語版第五巻(タバリーの英訳のサーサーン朝のパートの巻(『The History of Al-Tabari: The sāsānids, the Byzantines, the Lakhmids, and Yemen』)の全部の章が訳されているわけではないようだったからです。岡島氏は、「タバリーのシャーナーメ」とは別に、ブログで『使徒たちと諸王の歴史』のタイトルで、タバリーの歴史の冒頭第一巻からの翻訳を開始していましたから、いずれは第五巻に到達する時が来るだろうと期待できたこともあります。しかし2019年になると『使徒たちと諸王の歴史』のブログの更新はとまってしまったため、その後私もブログを見るのをやめてしまっていました。そういうわけで、サーサーン朝が扱われている英語版第五巻に相当する岡島版第四巻のペーパーバック版はおろか電子版さえ発売されていることを知ったのは今年の夏になってからです。刊行履歴を以下に整理してみました。
2014/7/20 電子書籍版『タバリーによるシャーナーメ・上巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
2014/7/27 電子書籍版『タバリーによるシャーナーメ・下巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
2018/8/5 電子書籍版『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』
2023/2/28 ペーバーバック版『タバリーによるシャーナーメ・上巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
2023/3/4 ペーバーバック版『タバリーによるシャーナーメ・下巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
2023/2/7 ペーパーバック『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』
(2)英語版との異同
本書日本語版4巻は、英語版の5巻に相当しています。ほぼ完全に同じ章立てですが、一部異同があるため、その点を記載します。
①英語版 [Resemption of the History of Kisrā Anῡsharwān] の章(p252-267)は、日本語版では、その前の
[The History of Yemen] Mention of the Rest of the Story of Tubba' in the Days of Qubādh and the Time of Anῡsharwān and the Persians' Disatch of an Army to Yemen in Order to Combat the Abyssinians and the Reason for This Last]
の章に組み込まれています。日本語版の「コーバーズとアヌーシールワーンの時代のトゥッバア(イエメン王)のそのほかの物語、アビシニア人と戦うためのペルシャ人によるイエメンへの軍隊の派遣、そしてその理由についての言及」(p115-201)の中のp192-201に相当し、私の参考訳では永霊王アノーシール ワーン (2)の記事に相当します。
この章は。1.イエメン王の事績、2.アビシニア人のイエメン侵攻とササン朝軍のイエメン占領(p150-192)、3.アノーシールワーンの事績 の三つの話から構成されています。2番目の「アビシニア人と戦うためのペルシャ人によるイエメンへの軍隊の派遣」の部分が、以前「アブラハ幻想」という記事で紹介した部分です。
②本書の「キスラー・アヌーシールワーンの治世」は、英訳の
[The Remainder of Kisrā Anῡsharwān's Reign and the Last Sāsānid Kings]
の章に該当します。この章は、私の参考訳では「英霊王アノーシールワーン(3)」となる筈だったのですが、ホスローの夢を魔術師が解読し、その後何度も詩が長々と続く部分も多く、ほとんどホスローは登場しないため、流し読みだけして終わらせたものです。なので、今回日本語訳でまっさきに読んだ部分でした。
③註釈の異同
日本語版4巻(本書)は334頁ですが、英語版5巻は458頁あり、詳細な注と索引がついた学術書となっています。1頁の半分くらい註釈のページはざらで、中には1ページの9割くらいを註釈が占めているページもあります。これに対し、本書に掲載されている註釈は非常に少なく、各章に1つか2つ程度しかありません。
④日本語版に索引はないため、やはり英語版も購入して併用することでカバーできます。日本語版を読んでいて、学術的な解説が必要だと思ったときも、英語版が役立つでしょう。また、英語版にある、「翻訳にあたってのまえがき」に相当する内容もありません。
⑤「古代のアラブ族」(p265-294)の章
本書の「ズー・カール日」の章はp265の1頁しかなく、本文は2行しかありません。また英語版には「古代のアラブ族」という章自体がありません。英語版は、日本語版の「ズー・カールの日」と「古代のアラブ族」が「The Encouter at Dhῡ Qār」という一つの章となっています。
⑥その他細かい異同
本書p103に「六〇万」とある箇所は、英語版では640,000」となっていて、「それから彼は帝都ローマに進撃して包囲した」は、英語版では「then went to on to Rome(Rῡmiyyah),a journey of four months, and beieged it」となっています。 journey of four months がなく、on to Rome を「帝都」を冠して訳していいのか、など諸点がありますが、このあたりは、章構成の異同と同様、底本の違いにあるのかも知れません(本書には底本に解説なく、第一巻の「まえがき」に、「エジプトのムハンマド・アブル・ファドゥル・イブラヒームが1969年から印刷本として出版した通称「カイロ版」と翻訳の底本とした」とあり、英語版の方はまえがきによると、19世紀にオランダのライデン大学で編纂されたライデン版(ササン朝の部分を専門家テオドル・ネルデケが作業したもの)+その他の諸情報を用いてカイロ版と比較しながら翻訳作業を行った、とありますので、若干の異同の理由はここにあるのでしょう)。
(3)日本で一般化している名称との異同
註釈が極端に少ないため、日本語のサーサーン関連本で一般的に利用されている用語や、ササン朝の入門書としては現在標準的な青木健『ペルシア帝国』(講談社現代新書)の用語と異なっている部分があります。これは、原典がアラビア語であり、9世紀のアラビア語圏の用語が用いられているからです。英語版もアラビア語の用語が利用されているのですが、私の参考訳では日本で一般化している用語に多くを改めています。
以下では、はじめてサーサーン朝本として本書を読む人や、青木本などの入門書の次に読む人が、検索して直ぐにヒットする用語であるWikipediaの用語と本書の用語の対照を一部記載します(見ればほぼ見当がつく程度のものは記載していません)。
本書 → 一般的な名称
(人名)
・サーブール → シャープール
・フルムズ → ホルミズド
・ナルスィー → ナルセ、ナルセス
・ファイルーズ → ペーローズ
・コーバーズ → カワード
・キスラー → ホスロー
(地名)
・ナシービーン → ニシビス
「アル…」「アン…」のように、頭にアルがつく用語は、アル、アンを除くと、一般的な用語となる
・アッライイ → レイ(イランの都市、テヘラン近郊。冒頭の地図では「ライ」と記載されている)
・アルマダーイン → マダーイン(ササン朝の都。クテシフォンやビフ・アルダシールなど首都圏の複数の都市を合わせた都市群のこと、意味的には「首都圏」)
・アルヒーラ → ヒーラ王を都とする王国。ヒーラ王国とも。英語版のタイトルにある、 the Lakhmidsとは、ヒーラ王国のラフム朝のこと。本書では、ササン朝の通史をメインとして、ヒーラ王国とイエメン王国の通史の章が差しはさまれる構成となっている。これらはササン朝の複数ある属国のひとつであり、アラブ人の国であることから、
・アンヌーマーン → ヌーマーン
・アルムンズィル → ムンズィル、ムンディル、ムンディールなど
なお、「ヒムヤル」もよく登場しているが説明がないのでわかりにくい。ヒムヤルはイエメンにあった王国のこと。
(4)問題点
本書では、「支那」という用語が数か所で使われています(p104-5、113、128)。英訳ではchina,chineseと訳されている部分です。この用語は日中間の政治問題である、という話とは別に、この時代を扱った書籍であるからには、学術的にこの時代の訳語として使うのは時代錯誤です。「支那」の由来は秦の名(上古音qín)がユーラシア西部へ伝播し、2世紀のプトレマイオス『地理学』ではギリシア語Σῖναι、ラテン語版ではSinae※と記載され、インドではCīna、或いはCīnasthāna(チーナスターナ)と呼ばれていたものです。11世紀頃のペルシア語では、マーチーンと呼ばれています。この用語が中国から西方へ赴いた役人や僧に伝わり、中国に逆輸入されました。しかし逆輸入された言葉が「支那」の文字に翻字されたのは唐代の玄奘の頃以降であり、それ以前の南北朝時代には、「秦」「真丹」「震旦」「振丹」などと翻字されていました。本書で「支那」が登場している箇所は、コーバーズ王とアヌーシールワーンの時代であり、すなわち南北朝時代のことであって、隋以降ではありません。従って、本書における「支那」の登場箇所では「秦」「真丹」「震旦」「振丹」などと翻字すべきであり、「支那」を用いたのは明確な誤りです。また、当時「中国」も史料によく登場するため、「中国」と訳すことは可能です。更にまた、そもそもCīnaの漢字表記は仏教界に限られていたため、仏教に関係ないところで使われているタバリーの用語に仏教用語を当てる必然性はまったくありません。当時のアラビア語発音が「シナ」であるならば(※追記、その後中世アラビア語発音はal-Ṣīn/スィーンであることがわかりました)、当時の中国史料に登場する漢字表記されている諸国や諸民族もカナ表記されているわけですし、一律そのまま「シナ」とカナで表記とする方が自然です。「シナ」とカナ表記する場合はその上で「現代では差別的表現とされる「支那」とは直接関係のない、当時のアラビア語の発音を現代カナ表記に翻字したものです。差別を助長する意図は一切ありません」などのキャプションを付ければ(問題化する可能性はゼロではないとはいえ)取り合えずクリアできるのではないかと思います(※追記訂正:中世アラビア語発音に則って”スィーン”とするのがベターだと訂正します)。いずれにせよペーパーバック版の増刷や電子書籍では表記を修正すべきでしょう。この問題において、隋以前の翻字については正確な出典史料に基づいた議論をネットで見かけることはほぼないため、末尾別途章(6)にて史料出典等詳述します(※12/17追記: :第三巻「イスラエル王国の興亡」のp198では、「中国」となっているのをたまたま見つけました。書籍版は 2023/2/16発売ですが、電子版は2018/4/4となっています。恐らく「タバリーのシャーナーメ」を出版した当時は「支那」だったものが、その後に「中国」と改められた可能性がありそうです。できれば「タバリーのシャーナーメ」の部分も書き代えて欲しいものです)。
※古典ラテン語表記:SINAE(シナエ)、CΪNAI(キナイ)、古典ギリシア語表記:Σῖναι(Sinai、シナイ)、 Θῖναι (Thînai、ティーナイ), Θῖνα (Thîna、ティーナ)。”SINAE”とプトレマイオス地図に記載されている画像(こちら)、CΪNAIとプトレマイオス地図に記載されている画像(こちら)
(5)対象読者
古代において、歴史書を残す民族や文明圏は限られていました。残していても散逸して失われてしまったがゆえに、通史程度の内容でもよくわからない民族や文明圏はたくさんあります(古代地中海だと、フェニキア史やカルタゴ史など)。ササン朝は、アケメネス朝にまで遡る、途中征服されていた期間があったとはいえ1200年の歴史を持つ古代イラン人の帝国にあって、末期に至るまで自民族の文字を持たなかった故に後世に歴史書を残すことができなかった帝国です。同時代の自前の史料は初期の諸王の碑文くらいしかなく(こちらに参考訳を載せています)、その他の同時代史料は、ローマ人やギリシア人、アルメニア人など周辺他民族による断片的な内容しかありません。しかし、ササン朝滅亡後100年以上たった頃から末期ササン朝の残した歴史書をもとにアラビア語でササン朝の通史を書く人アラブ人やペルシア人が登場し始め、その幾つかは現在にまで残っているものもあります。タバリーのササン朝の通史は、それらの中でもっとも詳細で包括的な内容の通史となっています。
これ以外のササン朝の通史本は、20世紀以降の研究者が書いたものにほぼ限られ、『ローマ皇帝群像』や『後漢書』などのような、古代の通史著作と同じレベルのものを古代イラン史に見出すには、タバリーのササン朝の通史くらいしかない、と見做せるのではないかと思います※1。
この意味で本書は大変貴重であり、もっと知られてもいい書籍なのではないかと考える次第です。
とはいえ、ローマ史や中国史の史書と比べると、逸話的・物語的なエピソード集に近く、『ローマ皇帝群像』の後半のような内容※2となっています。ざっくり言えば、王の名前と有力な家臣名、おおよその事績だけが史実で、その他の具体的なエピソードはほぼフィクションか、大幅に脚色された内容だと考えられます。しかしながら、そういう書籍だとわかって読むのであれば、本書は物語ササン朝の歴史通史本としておおいに活用できます。ササン朝の通史に関し、全体的・具体的ないメージを、初心者に読みやすい形で与えてくれる書籍としてニーズにあった読者にとってはお奨めできる書籍であると考える次第です。また史実性や、内容の学術的議論などにも関心のある方には英語版には詳細な註釈がついているため、大変有用です。
※1 9世紀のヤアクービーや10世紀のマスウーディなども比較的まとまったササン朝史通史を残しているようですが、質量ともタバリーよりは少ないようです。マスウーディはフランス語訳がPDF公開されていますので、いつか自動翻訳にかけて読んで見ようと思っています。ヤアクービーの歴史書は、現在日本語訳が進展中です(弘前大学人文社会科学部 人文社会科学論叢に毎年少しつづ翻訳が掲載されており(こちら)、数年後にはササン朝史に到達すると思われます)。
※2『ローマ皇帝群像』は約150年間を対象としていますが、この本の著者が元ネタとして利用した資料毎のクオリティに大きく影響を受け、前半がタキトゥスに近い、比較的史実性の高い歴史書となっているのに対し、後半は、スエトニウス以上にフィクション色が強い文学的な内容となっていることで知られている史料です。
(6)所感
9世紀のアラブ人の歴史家アル・タバリーの『歴史』に登場するサーサーン朝のパートは、私にとって非常に思い入れと思い出のあるものです。その日本語訳が読めたことは、私にとって人生の節目となる程大きなことです。
1994年頃からローマ遺跡の訪問をぽつぽつとはじめ、1995年から98年のブルガリア滞在中に本格的に最盛期ローマ帝国の遺跡巡りに目覚めて1998年にはローマ、漢、パルティア・ササン朝及びシルクロードの遺跡訪問を行いました。帰国してからは、これらの地域・時代に関する史料文献を読むことが目標となりました。その頃もっとも読みたいと思うようになっていたのがローマに関しては2~3世紀の通史『ヒストリア・アウグスタ』、漢に関しては1~2世紀の通史『後漢書』、そしてサーサーン朝に関しては3~7世紀の通史であるアル・タバリーの『歴史』のササン朝のパートでした。これらの時代を含む紀元1世紀から4世紀頃の時代を「古代世界の午後」だと感じているからです(ササン朝の前半は夕方、後半は夜だと思っていますが、、、ビザンツは「古代世界の夜」枠です)。
もし、既に日本語版のでている『プリニウス書簡集』やルキアノス著作や王充『論衡』『四民月例』、前期パルティア史が収録されているポンペイウス・トログス『地中海世界の歴史』 などがなかったとしたら、それらの著作の方こそもっとも読みたい本となっていたかも知れません。基本的には後世に書かれた歴史書より、旅行記やエッセイ、回想録など、その時代の人の肉声がきこえてくる、著者が直接見聞した内容を書いた著作に一番惹かれるため※、最初は回想録や旅行記的なものを中心に探しました。ローマについては一応抄訳版の『プリニウス書簡集』やルキアノスの一部の著作、『食卓の賢人たち』および『サテュリコン』などのエッセイや小説、漢については司馬遷、班固、王充の短いとはいえ自伝や長安と洛陽を描写した頌詩(賦)作品、パルティアについてはパルティア時代に原型があるとされる、パルティアを舞台とした11世紀の小説『ヴィースとラーミーン』、ササン朝については伊藤義教の『古代ペルシア』に収録されたササン朝時代の断片的な著作などの日本語訳があることがわかり、それ以上のものはなさそうなのは残念でしたが取り合えず満足することとし、結果的に私にとってプライマリとなったのが、上記の三作品だったのです。
※これらの時代ではありませんが、典型的な好物事例を挙げますと、11世紀の森本一夫 監訳、北海道大学ペルシア語史料研究会 訳ナースィレ・フスラウ著『旅行記』や同じく11世紀の『更級日記』です。これらは(短いこともあり)これまで3度読み返していて、最も好きな作品のひとつとなっています。
『後漢書』は2004年11月に汲古書院から渡邉義浩主編の訳注が出はじめ、同じく2004年1月には『ヒストリア・アウグスタ』の日本語版『ローマ皇帝群像第1巻』が刊行されたことで予想以上に早く日本語版が出ることになったことから、2004年はタバリーの英訳のサーサーン朝のパート(英語版第五巻『The History of Al-Tabari: The sāsānids, the Byzantines, the Lakhmids, and Yemen』)を読み、その後自分自身の備忘録代わりに各王の章の日本語訳を作成したりしていました。現在サイトに掲載している日本語参考訳(こちら)は2004年から2008年頃作業していたもので、いろいろな思い出があります。もっとも強く記憶に残っているのは、日本語訳をパソコンに打ち込む時に、両腕の間に見開いた書籍を挟んで支えながらの作業が非常にしんどかったことです。見開きをコピーして、パソコン画面の横に貼ればよかったのだと今では思うわけですが、当時は考えつきませんでした。当時自宅のパソコンは一画面しかありませんでしたから、デジカメで撮影したりスキャンしたりして別画面に英語版を表示する、ということも想定外だった時代です。バインダーを買って来て本を挟んでみたこともありますが、うまくいきませんでした。私にとってこの本は、そのようなある時期の記憶と密接に結びついているさまざまな思い出が去来する本ということで大変特別な本なのです。
本書英語版を入手して読み始めた当初は、タバリーの歴史が天地開闢からの歴史を扱っていて、サーサーン朝のパートが第5巻であることから、全6巻か7巻くらいの本だと思い込んでいました。サーサーン朝の400年に一冊ですから、その後の正統カリフ時代、ウマイヤ朝とタバリー時代までのアッバース朝の合計250年余は1、2冊程度だろう、と思い込んでいたのです。読み始めてしばらくした時のある日、たまたま検索してみたところ英語版には続刊があることを知り、どこまで続くのだろうかと調べてみたところ全39冊もあることがわかり驚愕し、思わずこちらに各巻の対象時代を整理した一覧表を作ってしまったくらいです。
とはいえ、読んだといっても英語版で読んだのは、サーサーン朝が登場する個所だけであって、アルヒーラやイエメン史などアラブ人の歴史の部分はほとんど読んでなかったため、今回日本語版ではほぼはじめてそれらの章を読むことができ、20年越しの人生の区切りがついたような、人生の心残りがひとつ解消できた感じがしています。本当に、本当にうれしい限りです。
岡島稔訳タバリーも、一応残りの巻全部購入する予定です。英訳の方は、既にセレウコス朝やパルティアに関して記載のある4巻と、イスラーム勢力によるササン朝征服戦争が詳述されている11-14巻は持っているので、今後は少しづつ英訳の残りの部分も揃えようと思っています。取り合えず私は同時代史料が好きなので、著者のタバリー自身にとって同時代史として最終巻となる38巻を購入しました。
(7)史料から見る南北朝時代以前の中国における「Cīna」の翻字
7-1 なぜ20年間という短期間しか中国を統一していなかった「秦」の名が西方で中国を示す言葉として定着したのか
ひと言でいえば、西方に定着したのは、始皇帝によって統一された秦ではなく、統一以前の秦だったと思われます(正確にいえば、統一以前の秦である可能性の方が高い、ということです)。なぜこの可能性が高いといえるかというと、この現象は秦だけではなく、後世の北魏拓跋氏、遼(契丹)などの中国を統一していなかった王朝に関しても見られるからです。
①北魏拓跋氏の場合:タブガチュ(語源:拓跋)
唐代の中国を中央アジアの主にテュルク系の人が中国を呼んだ用語です。鮮卑族の北魏の拓跋氏が由来です。拓跋氏は中国の北部だけを支配し、中国を統一できたわけではありませんが、北方や西方の人々にとっては、中国の入口部分を支配しているため、北魏の家臣群から興った隋や唐王朝もタブガチュと呼んでいました。統一できなかった北魏より、中国を統一し、さらにカスピ海やアフガニスタン方面まで支配下に置いた「唐」の名称は西方にはほぼまったく定着していません。タブガチュがあまり日本で知られていないのは、20世紀に日本で出版されたトルコ史の本などで、原語がタブガチュである部分をシナと訳してしまっていたからです。例えば20世紀の中央ユーラシア研究の第一人者である護雅夫『古代遊牧帝国』中央公論社〈中公新書 437〉、1976年)では、突厥碑文で登場するタブガチュをシナと翻訳してしまっていました。原文の突厥碑文は『満蒙史論叢』 第4巻(1943年)収録の突厥碑文訳註 (小野川秀美)にテュルク語の原文と日本語訳が出ているので確認することができます。
②遼王朝の場合:キタイ(語源:契丹)
遼王朝をつくったのが契丹族です。。魏よりも更に少ない北部の一部しか伝統的中国の領域を支配していなかったのにも関わらず、です。「キタイ」は当初、中央アジアのペルシア語圏などで中国を意味する用語として広まり、モンゴル帝国時代にイスラーム圏を旅した西欧人によっても中国をあらわる用語として西欧へ伝わりました。西欧では中国を表わす言葉は現在は秦由来のchina系の用語となっていますが、カトリック圏以外のスラブ語圏では現在でもキタイは中国を意味するまでに定着しています。
以上のように、戦国時代の秦は戦国の七雄として200年以上強国であり、春秋五覇時代からすれば400年以上中国北西部において強国であり続けた国だったため、前8世紀ころに成立した中央ユーラシアの遊牧民族が、モンゴル高原から南ロシア平原まで行き来するようになると、遊牧民の移動などを介して西方へとその名称が伝播したのだと思われるわけです。
統一王朝である漢ではなく秦、唐ではなく北魏、宋ではなく、遼(契丹)の名称が西方で定着し、漢、唐、宋は西方では定着しなかったのです。
7-2 中央アジアを訪れた中国人が、現地の言葉で中国語を表わす言葉をどのように認識したか
現代の研究の結果、古代の秦の音は《上古音qín》だと考えられているそうです。漢代に入ると、中央アジアや西アジア、インドを訪れる中国人が多数でてきました。彼らが現地で接した言葉を、どのように中国語に翻字したのかは、史料に残っています。
【1】漢代
漢の軍人の報告部分に、匈奴の台詞として次の文が登場しています。
「匈奴縛馬前後足,置城下,馳言『秦人,我匄若馬』」
ちくま学芸文庫版第8巻p102の日本語訳では、この部分の後半を匈奴が「『秦人よ、我は汝に馬を与えよう』といった」と訳しています。漢代、当時の匈奴が中国人を「秦人」と呼んでいたことがわかります。なお、支那の使用にこだわる人は、「中国」という言葉も当時は国名ではなかったから中国より支那を使うべき、と主張しますが、中国も普通に登場しており、上の文の少し前には次のように記載されています。
「可益通溝渠,種五穀,與中國同時孰。」(日本語訳は同p100に「ますます溝渠を通じて五穀を種えることができ、中国と同じ時節に穀が熟します」と訳されています)。
大宛に遠征した李広利将軍と部下との談話中に次の文が登場しています。
「貳師與趙始成、李哆等計:「聞宛城中新得秦人,知穿井,而其內食尚多」
日本語訳弘文堂『史記』列伝IV巻p110に、「貳師※は趙始成・李哆らと相談した。「聞けば、大苑の城中では、新たに秦人(※漢人)を手に入れ、井戸を掘ることを教わり、城内には食糧がまだ多いそうである」、とあります。
※李広利のこと ※(漢人)、は訳者の挿入
この文は、中国人同士の会話であるため、普通なら漢人などとすべきところを理由は不明ですが、「秦人」としているため、西方人自身の発話ではないのですが、現地での用語をそのまま用いた可能性がある部分です。①に比べれば直接話法ではないため史料根拠は一段低いのですが、①を補強する根拠とはなります。
【2】南北朝時代
続いて南朝梁時代の著作『高僧伝』(日本語訳岩波文庫版『高僧伝』)と『法顕伝』(日本語訳東洋文庫『法顕伝・宋雲行紀』)に登場する、西方人による中国の呼称、及び中国人が西方用語を用いた中国の呼称を確認します。
①高僧伝第三巻、宋の京兆の釈知猛の章(後秦時代のインド人僧の発言)
釈知猛は404年に後秦(384-417年)の都長安を出発しインドへ赴きました。インド到着はば405,6年ころだと推測されます。この頃はまだ南朝宋ではないのですが、彼のキャリアの多くは宋代のものなので、「宋の京兆の釈知猛」との章題となっています。インド訪問中の描写に以下の一部があります。
「後至華氏國阿育王舊都,有大智婆羅門,名羅閱宗,舉族弘法,王所欽重,造純銀塔,高三丈。既見猛至,乃問:「秦地有大乘學不?」」(原文)
岩波文庫版日本語訳第一巻p320の訳文は以下となっています。なお、華氏国とは当時のグプタ朝の都パータリプトラ、阿育王とは同じくパータリプトラを都としたマウリヤ朝のアショカ王のこと。
「その後、華氏国に到着した。阿育王の旧都である。大智慧の婆羅門っで羅閲宗と名乗る者がおり、一族挙げて仏法を弘通して王からいたく尊敬され、純銀の高さ三丈の塔を製作していたが、智猛がやって来たのを見ると、「秦の地には大乗の学が存在するのか」とたずねた」
ここでは婆羅門が中国のことを「秦」と呼んでいます。普通に考えれば、既に到着していた戦国秦由来の「qín」である可能性がありますが、釈知猛が出発した当時の長安は後秦の都でしたから、後秦のことである可能性もあります(この点は後で論じます)。いずれにせよ、現地人の発話を「秦」と訳していることにはかわりはありません。その現地の用語とは、サンスクリット語のCīna(チーナ)又はCīnasthāna(チーナスターナ)だと考えられています。
②高僧伝第三巻、宋の京師の枳園寺の釈智厳の章(後秦時代のインド人僧の発言)
釈智厳は、西方を巡歴し、ガンダーラの摩天陀羅精舎現地のインド人僧仏駄先比丘(ブッダセーナ)から3年に渡り教えうけ、師から目をかけられたとのことです。以下は、現地の出家在家の人々が釈智厳を評していった言葉です。二か所で秦が登場しています。
「彼諸道俗聞而歎曰:「秦地乃有求道沙門矣。」始不輕秦類,敬接遠人」(原文)
日本語版第一巻p262では以下となっています。
「その地の出家在家の者はそのことを聞くと、「中国の地にもなんと求道の沙門がいるものだ」と感嘆し、始めて中国の人間をみくびることなく、遠方の人間を敬わって接するようになった」
原文では「秦」とある部分が日本語訳では「中国」となっています。私が引用した原文はWikisourceのものなので、もしかしたら日本語訳の底本には「中国」と書かれているのかも知れません。というのも、『高僧伝』でも「中国」は登場していますし※、この文の数行後の原文には、「中土」という用語も登場しています(ここも日本語訳では「中国」と訳されている(原文「欲傳法中土」、日本語訳「「仏法を中国の地に伝えたいと思ったところ」(p262))。
※『高僧伝』第七巻宋の吳の虎丘の釋曇諦の章では、冒頭に「釋曇諦,姓康,其先康居人。漢靈帝時移附中國」との一文がある(原文)(日本語版では文庫三巻p103、「後漢の霊帝の時に中国に移って帰属し」となっている)。
さらにこの数行後に417年の宋武帝の長安征服事件が記載されているため、この発言も後秦時代のものだということがわかります。
③高僧伝第三巻、晋の彭城郡の釋道融の章(後秦時代のスリランカ人僧の発言)
釋道融は、鳩摩羅什(344-413年)に弟子入りし、次の文はその頃の話です。鳩摩羅什は401年に後秦の都長安に来たため、このエピソードも後秦時代の話です。
師子国(スリランカ)から関中に来た婆羅門が、中国に来る前に現地(スリランカ)で弟子たちに言った台詞として
「寧可使釋氏之風獨傳震旦,而吾等正化不洽東國?」(原文)
とあり、ここでは「Cīna」の訳として「震旦」が使われています。確認したところ、『高僧伝』全体で震旦が使われているのはここだけでした。
日本語版文庫第二巻p272では、
「釈氏の教風のみを中国に伝えさせるだけで、われわれの正しい教えを東国に行き渡らせなくてよいものであろうか」
と訳されています(日本語訳では「震旦」を「中国」と訳している)。
少し後に今度は後秦の都で皇帝に向かって言った言葉として同じ婆羅門が次の発言をしています。
「今請與秦僧捔其辯力,隨有優者,即傳其化。」(原文)
「今どうか、秦地の僧と弁才くらべをしたうえ、勝った方の味方についてその教えを宣伝して頂きたい」 と訳されています。
この文の「秦」は後秦の皇帝へ向けた言葉です。師子国の婆羅門が「震旦」と「秦」を使い分けた理由は、「秦」は後秦王朝そのものを意味し、スリランカにいた頃の現地の言葉としてのCīnasthāna(チーナスターナ)が使われていてた可能性を想定することができます。後者は明らかに後秦王朝ではないため、戦国秦由来の「qín/Cīna(チーナ)」に由来する言葉であることの相違を漢字の使い分けで表現している可能性がありそうです。
④高僧伝第三巻末尾の「論」の章(南朝梁の時代の著者である慧皎(497-554年)の発言)
「振丹之與迦維,雖路絕蔥河」(原文)
日本語訳文庫版第一巻p355「中国とカピラヴァストゥの間、路程は葱嶺と大河によって隔てられ」となっています。斉の時代だからか、秦ではなく、振丹が使われています。
⑤高僧伝第四巻、晋の中山の康法朗 (令韶)の粗油(西晋末から東晋初期のゴビ砂漠近辺の現地人僧の発言)
インドを目指して旅に出た康法朗が、張液(甘粛省)を出て三日後の小寺で、現地人の僧に次のように言われています。
「當還真丹國作大法師」(原文)
日本語版では文庫第二巻p41に、「きっと真丹国に戻って大法師となるであろう」と訳されています。
康法朗の章には年代が推定できる記載がありませんが、各伝一応時代順に並んでいるため、後続の章で王敦(266年-324年)の弟である竺法潛の伝が出て来るため、西晋から東晋初期の人物であると推定できます。
⑥高僧伝巻二、鳩摩羅什(344-413年/350-409年))
母親につれられてインドに赴き、インドを出立する時に母親が鳩摩羅什に言った台詞に
「《方等》深教,應大闡真丹」(原文)
とあり、文庫版二巻p156に「大乗の深遠な教えはきっと真丹で盛大になりましょう」と訳されています。
これがいつなのか特定するのは難しいのですが、少なくとも鳩摩羅什は12歳以降なので、352年/362年以降ということになり、いずれにしても前秦は成立していますが、前秦の北部統一の前か後かは明確ではないため、前秦がまだなかったから真丹を用いたのか、それともインドの言葉で「チーナスターナ」となっていたため、真丹を用いたのか、いずれなのかは不明です。
なお、この少し後には、「大秦錦褥鋪之」(日本語版文庫二巻p157「大秦国の錦の敷物を敷き」)と出てきて、註釈でローマ帝国だと記載されています。一方、晋の彭城郡の釋道融(前掲③)には、スリランカからやってきた婆羅門に対して鳩摩羅什が、
「什因嘲之曰:「君不聞大秦廣學,那忽輕爾遠來。」(原文)
と発言する場面があります。日本語訳は文庫版第二巻p273で、「君は大秦国の広大な学問を耳にすることもなく、どうしてそう軽率にはるばるやって来たのだ」となっており、この部分での大秦国は、鳩摩羅什が後秦にやってきた頃の後秦の国号「大秦」のことであると考えられます。このように、同じ「大秦国」でも、ローマ帝国を示す場合と、中国の王朝の国号を示す時があり、文脈や時代により意味が異なるため、注意が必要なのですが、恐らく錦の敷物の方の大秦国の頃は、前秦がまだ大国ではなかった、或いは後秦のように国号としての大秦が成立していなかった頃の話なので、「大秦」の意味はローマ帝国だけを意味するもの、とされていたのかも知れません。
⑦『法顕伝(仏国記)』(原文)
この本には現地人の発話がない点『高僧伝』と比べると史料的価値は低いのですが、法顕自身が中国をどの用語で認識していたかが見て取れます。
秦の文字は多く、6か所程で登場しています。日本語訳の登場箇所と日本語訳を記載します。
「秦土沙門至彼都」 → 「[中国]の僧がその国へ行くと」(p13)
「俗人被服粗類秦土」→ 「俗人の衣服は、ほぼ秦土(中国)に似ていて」(p26)
「遂還秦土」 → 「そのまま秦土に還り」(p45)
「見秦道人往」 →「中国の僧が往くのを見て」(p52)
「即此秦地衆僧所行者也」 → 「即ち秦地(中国)の衆僧の行うところのものである」(p129)
「乃追歎秦土邊地,衆僧戒律殘缺」 → 「なんと秦土の辺地では衆僧の戒律が残欠していることよと嘆き」(p129)
漢の文字は登場箇所が多いので一部のみ紹介します。
「與漢地同耳」 → 「漢(中国)の地と同じである」(p26)
「法顯本心欲令戒律流通漢地」 → 「法顕はもともと心から戒律を漢の地に流通させたいと欲していた」(p129)
「中国」もよく登場していますが、『高僧伝』との違いは、「中インド」を指している点です。
此中國有九十六種外道 → 「この中インド<中国>には九十六種の外道があり」(p73)
道整既到中國 → 「道整は既にインド<中国>に至り」(p129)
この場合の「中国」は、サンスクリット語のmajjhimajanapadaの直訳です※。『高僧伝』の著者慧皎は南朝梁の人で、梁にいて『高僧伝』を執筆したため、慧皎にとっての「中国」は、自国のことでした。しかし法顕の『法顕伝』は、法顕のインド旅行記であるため、インドにいる時の彼にとっての中国は、中インドを意味することになるわけです。帰国後旅行記を漢文で書く時には、自国の中国は「秦」や「漢」と表記し、「中国」という用語は、中インドを意味するmajjhimajanapadaの直訳である「中国」と記載したことになります。また、法顕がインドを旅した時は、北朝は後秦の時代だったため、法顕の記す「秦」は後秦である可能性があります。つまり彼は、後秦を意味する言葉に「秦」を、自国の中国を意味する言葉には「漢」を、インドのmajjhimajanapadaを意味する言葉に「中国」を当てた、との推測も成り立ちます。この傾向は法顕だけではなく、『高僧伝』に登場する他の僧たちの場合にも似たような傾向を見出すことができそうです。この点について次項で改めて記載したいと思います。
※古代インドにおける地理用語については、こちらの記事でも解説しています(古代インドにおける地理認識(北道・中国・南道)と複数の皇帝称号)
7-3 仏教史料における、インドの言葉で中国を示す漢字用語の変遷
7-2で紹介した『高僧伝』『法顕伝』でのCīnaの訳語には以下のような一定の傾向が見られました。
①Cīnaを秦と訳すのはほぼ後秦時代に限られる
②後秦以外の時代は、「振丹」(西晋末~東晋初)、「真丹」(南朝梁)と訳される
③後秦以前の「中国」は自国の中国を意味するが、後秦時代の「中国」は、中インドを意味する
こうなる理由の可能性には二つ考えられます。
①訳語の真丹、振丹は、原語がCīnasthāna(チーナスターナ)である場合だけに用いられた。従って後秦時代に「秦」と訳されたのは、現地人が、「Cīna」とだけ発話したからであるにすぎない。後秦時代にしか訳語「秦」が見られないのはたまたま「Cīnasthāna」と発話されたエピソードが『高僧伝』に採用されなかったからに過ぎない。
②後秦の時代にはCīnaの訳語を「秦」とし、それ以外の時期には「真丹」、「振丹」、「震旦」を用いる、という使い分けがあった
いずれにしても、唐代以降では「秦」の訳語は廃れ、「真丹」「振丹」「震旦」「支那」などの用語が仏教文献では主流化してゆき、一方「中国」の用語も、仏教文献では中インドを指すようになってゆきました(あくまで仏教界だけの話で、仏教以外では従来通り、自国を指す「中国」が用いられた)。
慧琳が唐の元和2年(807年)に表した、語彙事典である『一切経音義』二ニ巻では、「Cīna/Cīnasthāna」は以下のように記されているそうです。
項目の見出しは「震旦国」で、「或いは支那と曰い、亦た真丹と云う。(略)即ち今の此の漢国なり」(日本語版『高僧伝』p159脚注(2))とあり、項目名からすると唐代では、「支那」よりも「震旦」の方が主流だったようにも見えます。この脚注には、唐の法琳の『弁正論』六・十喩篇に載っている震旦の解説があり、そこには、パミール高原から東方へ流れ出る震旦という河があり、東方からのぼる日出は、河面に輝くため、パミール高原から東方を震旦(震は東の意味)と呼んだ、その解説があるそうです。唐代には、語源が秦王朝であったことは忘れられていたようです。
以上のような経緯で仏教文献においては「秦」の利用が廃れ、「震旦」「支那」「真丹」に移行していったことがわかります。
7-4 まとめ
前1世紀の著作『史記』大宛伝には、大宛での会話に「秦人」という言葉が登場し、後一世紀の著作『漢書』西域伝下では、前漢時代の匈奴が、中国人のことを「秦人」と呼んでいる会話文が収録されています。前漢時代に既に北方の遊牧民族や西方の中央アジアでは、当時の秦の音(qín)に因んだ音で中国人を呼び、それを中国の文人が「秦」と翻字したことがわかります。2世紀までには地中海にも伝わり、2世紀のプトレマイオス『地理学』ではSinaeと記載され、インドではCīna、或いはCīnasthāna(チーナスターナ)と呼ばれました。
漢代までのqínに因んだ西方用語は、前後漢時代では「秦」と翻字されましたが、以後の時代では、唐代に入るまでのサンスクリットのCīnaは「秦」、Cīnasthānaは「真丹」「振丹」「震旦」などと翻字されました。「支那」という翻字が登場するのは7世紀の玄奘の頃以降です。Wikipediaの「支那」の記事に「支那」の登場は隋代以降と記載がありますが出典の記載がないため、今は追究しませんが、私の知る範囲で確実なのは玄奘からです。またこのWikiの記事では仏教伝来が隋代と記載されていますが、仏教伝来は紀元前後の話です。3世紀以降となるとインド僧がインドから中国へ、中国僧がインドへと布教と学習のために去来しているとの話は高校世界史レベルの話です。この高校レベルの話さえ、Wikipediaの「支那」の記事は理解できていない状態には驚くばかりです。唐代の中国では多数のサンスクリットからの原典訳事業が行われ、仏教界では支那の用語は普通に使われるようになりましたが、仏教界以外にはほぼまったく広まりませんでした(この点を誤解している日本人は多そうです)。唐末五代には、政権による二度の仏教弾圧が行われた結果、中国では仏教自体が衰退していきましたから、中国ではそれにともない支那という用語の利用も殆どなくなり、やがては忘れられてしまいました。江戸中期に日本で支那の用語が復活して明治に入り日本から中国へと逆輸入されていった結果、中国人の多くは「支那」は、日本人が作った差別用語だと誤解するようになってしまったわけです。中国史上において、支那の文字が仏教文献以外で殆ど利用されてこなかった実状は、台湾の中央研究院の「漢籍電子文献」という漢籍全文検索データベースで「支那」で検索するとわかります。全ての歴史文献がこのデーターベースに収録されているかどうかは不明ですが、全体的な傾向は把握することができます。ヒットする20件あまりの文献のうち、10回以上用語が登場している文献は、仏教文献の大正新脩大藏經に収録されている仏教文献ばかりであることから、中国において支那が利用されていたのはほぼ仏教界に限られてきたことがわかります。
ところで、タバリーの訳者が差別的意図をもって支那という用語を用いたのかどうかは不明ですが、訳者の一人岡島氏は1944年生まれで、たんに戦前の「支那」の文字に馴染んでいた世代の方だとの可能性もあり、もし差別的意図がないのであるなら差し替えが容易な電子版の方は修正すべきです。差別的意図があったとしてこの翻字を用いたならば、この著作は私情が持ち込まれた情けない翻訳と評価されてしまうかも知れません。いずれにせよこのままでは翻訳の価値を貶めるため、増刷があるとすればペーパーバックも含め、少なくとも電子版の方は修正すべきでしょう。
なお、修正する場合には、「秦」「真丹」「振丹」「震旦」などの漢字を用いるか、わざわざ仏教界でしか利用されていなかった漢字で表記する必然性もないことから、アラビア語での発音のカナ文字表記がより適切です。ペルシア語ですと、岡田恵美子氏の11世紀のペルシア文学作品『ヴィースとラーミーン』の日本語訳では、中国のことをマーチーンと表記しています。このことから11世紀のペルシア語では「マーチーン」との発音だったらしいことがわかります。私はアラビア語の発音を知らないのですが、仮に「シナ」だったとしたら、それはそれで中国人にとっては物議を醸すかも知れませんが、少なくとも、「支那」のカナ表記ではないため、許容されるべき範囲なのではないかと(個人的には)思います。チーナスターナ由来の「真丹」はサンスクリット語の翻字なので、本書に用いるのは適切ではないと思います。本書はササン朝史メインの本なので、ペルシア語表記を採用して「チーン/マーチーン」とすれば中国人との争議は避けられそうですが、「支那」が登場している箇所はアラビア人の国の歴史の章なので、ペルシア語発音を採用するのもやはり適切ではありません。漢字で「秦」とするのが無難な気がしますが、アラビア語の著作のアラブ人の世界認識の話なのにわざわざ漢字に翻字する必要性はありません。個人的には以下の優先順位で諸案が考えられます。
①タバリーの時代のアラビア語の原音が、「チーン」「シーナ」など、問題とならない発音であれば、そのまま翻字できるため、これがベスト
②ササン朝時代でもタバリーが本書を書いた9世紀でも、中国では自国のことを中国と呼ぶことがあったため、「中国」と訳す。ただしわざわざ漢字にする積極的な理由はない。
③ササン朝時代に用いられた西方用語の翻字「秦」を使う。ただしこれも、②と同様漢字にしなくてはならない必然性がない。
④「秦」の上古音である「チン」或いは中古音のdzin(ズィン)とする(支那の唐代の発音はZhīnàとのこと)
⑤アラビア語の原音が、どうしても「シナ」という表記がもっとも妥当である場合、「現代では差別的表現とされる「支那」とは直接関係のない、当時のアラビア語の発音を現代カナ表記に翻字したものです。差別を助長する意図は一切ありません」などのキャプションを付ければ(問題化する可能性はゼロではないとはいえ)取り合えずクリアできるのではないかと思います。実際、中国ではネット企業新浪社のwww.sina.com表記が日本語の「シナ」と同じ発音であることから問題となった有名な論争があり、結論としては、新浪社のsinaは、「古代インドのsinoとchinaの合成語」との論法で「「支那」からの翻字ではない」として一応中国では認められた一件があります(根本的な原語の由来は同じなのですが)。アラビア語からの直接のカナ翻字が「シナ」となってしまったとしても、同じ論法が成り立ちうる筈なのです。①が駄目ならこれがベストなのではないでしょうか(※その後調べたところ、どうやら中世アラビア語の表記と発音は、al-Ṣīn(スィーン)のようです(出典こちら( Historical Index of the Medieval Middle East-al-Ṣīn (region)))。
ところで、本書英語版では当該部分はchina,chineseとなっていて、これも問題です。タバリーの時代のアラビア語発音に忠実なローマ字翻字がベストであることはいうまでもありません。英語版はページの半分くらいが註釈なのですから、発音翻字の解説注でchinaとしておけば問題ない話です。
2024/Dec/17月:第三巻「イスラエル王国の興亡」の「中国」に関する記載を追記
2025/Jan/09:「秦」の中世アラビア語発音を追記
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【通販サイトの書評用短縮版】 2025年2月16日追記
本書は、アッバース朝の衰退期の学者アル・タバリー(839-923年※1)の著書『諸預言者と諸王の歴史T』の英訳版第五巻※2に相当する部分の、アラビア語版校訂版からの日本語訳です。
※1 カスピ海南岸地方の出身であるため、ペルシア人である可能性があるが、アラブ人移民の子孫である可能性もあり、詳細は不明。著者は全てアラビア語で行っている
※2『The History of al-Tabari Vol. 5: The Sasanids, the Byzantines, the Lakhmids, and Yemen (SUNY series in Near Eastern Studies)』( 1999年、Clifford Edmund Bosworth訳)
本書については4点述べます。
(1)本書の対象読者
(2)日本語版第四巻と英語版第五巻の内容の異同について
(3)日本で一般化している名称との異同
(2)日本語版第四巻と英語版第五巻の内容の異同について
(3)日本で一般化している名称との異同
(4)問題点
(1)本書の対象読者
古代において、歴史書を残す民族や文明圏は限られていました。残していても散逸して失われてしまったがゆえに、通史程度の内容でもよくわからない民族や文明圏はたくさんあります(古代地中海だと、フェニキア史やカルタゴ史など)。サーサーン朝は、アケメネス朝にまで遡る、途中征服されていた期間があったとはいえ1200年の歴史を持つ古代イラン人の帝国にあって、末期に至るまで自民族の文字を持たなかった故に後世に歴史書を残すことができなかった帝国です。同時代の自前の史料は初期の諸王の碑文くらいしかなく、その他の同時代史料は、ローマ人やギリシア人、アルメニア人など周辺他民族による断片的な内容しかありません。しかし、サーサーン朝滅亡後100年以上たった頃から末期ササン朝の残した歴史書をもとにアラビア語でササン朝の通史を書く人アラブ人やペルシア人が登場し始め、その幾つかは現在にまで残っているものもあります。タバリーのササン朝の通史は、それらの中でもっとも詳細で包括的な内容の通史となっています。
タバリーの『歴史』以外のササン朝の通史本は、20世紀以降の研究者が書いたものにほぼ限られ、『ローマ皇帝群像』や『後漢書』などのような、古代の通史著作と同じレベルのものを古代イラン史に見出すには、タバリーのサーサーン朝の通史くらいしかない、と見做せるのではないかと思います※1。この意味で本書は大変貴重であり、もっと知られてもいい書籍なのではないかと考える次第です。
とはいえ、ローマ史や中国史の史書と比べると、逸話的・物語的なエピソード集に近く、『ローマ皇帝群像』の後半のような内容※2となっています。ざっくり言えば、王の名前と有力な家臣名、おおよその事績だけが史実で、その他の具体的なエピソードはほぼフィクションか、大幅に脚色された内容だと考えられます。しかしながら、そういう書籍だとわかって読むのであれば、本書は物語ササン朝の歴史通史本としておおいに活用できます。ササン朝の通史に関し、全体的・具体的ないメージを、初心者に読みやすい形で与えてくれる書籍としてニーズにあった読者にとってはお奨めできる書籍であると考える次第です。また史実性や、内容の学術的議論などにも関心のある方には英語版には詳細な註釈がついているため、大変有用です。
英語版第五巻で読んだのは、サーサーン朝が登場する個所だけであって、アルヒーラやイエメン史などアラブ人の歴史の部分はほとんど読んでなかったため、今回日本語版ではほぼはじめてそれらの章を読むことができ、20年越しの人生の区切りがついたような、人生の心残りがひとつ解消できた感じがしています。本当に、本当にうれしい限りです。
※1 9世紀のヤアクービーや10世紀のマスウーディなども比較的まとまったササン朝史通史を残しているようですが、質量ともタバリーよりは少ないようです。マスウーディの英語版はイスラーム時代以降しか訳されておらず、ヤアクービーの歴史書は、現在日本語訳が進展中です(弘前大学人文社会科学部 人文社会科学論叢に毎年少しつづ翻訳が掲載されており、数年後にはササン朝史に到達すると思われます。楽しみです)。
※2『ローマ皇帝群像』は約150年間を対象としていますが、この本の著者が元ネタとして利用した複数の資料毎のクオリティに大きく影響を受け、前半がタキトゥスに近い、比較的史実性の高い歴史書となっているのに対し、後半は、スエトニウス以上にフィクション色が強い文学的な内容となっていることで知られている史料です。
(2)日本語版第四巻と英語版第五巻の内容の異同について
日本語版第四巻と英語版第五巻は、同一部分の翻訳ですが、章の区分に以下のような若干の異同があります。英語版の校訂本は19世紀の西欧の研究者達によるもので、本書の校訂本は20世紀のエジプト人学者の校訂本であることによる相違だと思われます。
①英語版 [Resemption of the History of Kisrā Anῡsharwān] の章(p252-267)は、日本語版では、その前の
[The History of Yemen] Mention of the Rest of the Story of Tubba' in the Days of Qubādh and the Time of Anῡsharwān and the Persians' Disatch of an Army to Yemen in Order to Combat the Abyssinians and the Reason for This Last]
の章に組み込まれています。日本語版の「コーバーズとアヌーシールワーンの時代のトゥッバア(イエメン王)のそのほかの物語、アビシニア人と戦うためのペルシャ人によるイエメンへの軍隊の派遣、そしてその理由についての言及」(p115-201)の中のp192-201に相当します。
この章は。1.イエメン王の事績、2.アビシニア人のイエメン侵攻とササン朝軍のイエメン占領(p150-192)、3.アノーシールワーンの事績 の三つの話から構成されています。
②本書の「キスラー・アヌーシールワーンの治世」は、英訳の
[The Remainder of Kisrā Anῡsharwān's Reign and the Last Sāsānid Kings]
の章に該当します。この章は、ホスローの夢を魔術師が解読し、その後何度も詩が長々と続く部分も多く、ほとんどホスローは登場しないため、英語版では流し読みだけして終わらせたものです。なので、今回日本語訳でまっさきに読んだ部分でした。ようやく読めて感激でした。
③註釈の異同
日本語版4巻(本書)は334頁ですが、英語版5巻は458頁あり、詳細な注と索引がついた学術書となっています。1頁の半分くらい註釈のページはざらで、中には1ページの9割くらいを註釈が占めているページもあります。これに対し、本書に掲載されている註釈は非常に少なく、各章に1つか2つ程度しかないため、日本語版の内容について学術的な見解を知りたい場合には、英語版は大いに有用です。
④日本語版に索引はないため、やはり英語版も購入して併用することでカバーできます。英語版にある、「翻訳にあたってのまえがき」に相当する内容も日本語版にはありません。
⑤「古代のアラブ族」(p265-294)の章
本書の「ズー・カール日」の章はp265の1頁しかなく、本文は2行しかありません。一方英語版には「古代のアラブ族」という章自体がありません。英語版は、日本語版の「ズー・カールの日」と「古代のアラブ族」が「The Encouter at Dhῡ Qār」という一つの章となっています。
⑥その他細かい異同
本書p103に「六〇万」とある箇所は、英語版では640,000」となっていて、「それから彼は帝都ローマに進撃して包囲した」は、英語版では「then went to on to Rome(Rῡmiyyah),a journey of four months, and beieged it」となっています。 journey of four months がなく、on to Rome を「帝都」を冠して訳していいのか、など諸点がありますが、このあたりは、章構成の異同と同様、底本の違いにあるのかも知れません(本巻には底本の解説なく、第一巻の「まえがき」に、「エジプトのムハンマド・アブル・ファドゥル・イブラヒームが1969年から印刷本として出版した通称「カイロ版」と翻訳の底本とした」とあり、英語版の方はまえがきによると、19世紀にオランダのライデン大学で編纂されたライデン版(ササン朝の部分を専門家テオドル・ネルデケが作業したもの)+その他の諸情報を用いてカイロ版と比較しながら翻訳作業を行った、とあります)。
(3)日本で一般化している名称との異同
註釈が極端に少ないため、日本語のサーサーン関連本で一般的に利用されている用語や、ササン朝の入門書としては現在標準的な青木健著『ペルシア帝国』(講談社現代新書)の用語と異なっている部分があります。原典がアラビア語であるためで、英語版もアラビア語の用語が利用されているのですが、私の参考訳では日本で一般化している用語に多くを改めています。
以下では、はじめてサーサーン朝本として本書を読む人や、青木本などの入門書の次に読む人が、検索して直ぐにヒットする用語であるWikipediaの用語と本書の用語の対照を一部記載します。
本書 → 一般的な名称
(人名)
・サーブール → シャープール
・フルムズ → ホルミズド
・ナルスィー → ナルセ、ナルセス
・ファイルーズ → ペーローズ
・コーバーズ → カワード
・キスラー → ホスロー
・サーブール → シャープール
・フルムズ → ホルミズド
・ナルスィー → ナルセ、ナルセス
・ファイルーズ → ペーローズ
・コーバーズ → カワード
・キスラー → ホスロー
(地名)
・ナシービーン → ニシビス
・ナシービーン → ニシビス
「アル…」「アン…」のように、頭にアルがつく用語は、アル、アンを除くと、一般的な用語となる
・アッライイ → レイ(イランの都市、テヘラン近郊。冒頭の地図では「ライ」と記載されている)
・アルマダーイン → マダーイン(ササン朝の都。クテシフォンやビフ・アルダシールなど首都圏の複数の都市を合わせた都市群のこと、意味的には「首都圏」)
・アルマダーイン → マダーイン(ササン朝の都。クテシフォンやビフ・アルダシールなど首都圏の複数の都市を合わせた都市群のこと、意味的には「首都圏」)
・アルヒーラ → ヒーラ王を都とする王国。ヒーラ王国とも。英語版のタイトルにある、 the Lakhmidsとは、ヒーラ王国のラフム朝のこと。本書では、ササン朝の通史をメインとして、ヒーラ王国とイエメン王国の通史の章が差しはさまれる構成となっている。これらはササン朝の複数ある属国のひとつであり、アラブ人の国であることに因む。
・アンヌーマーン → ヌーマーン
・アルムンズィル → ムンズィル、ムンディル、ムンディールなど
・アルムンズィル → ムンズィル、ムンディル、ムンディールなど
なお、「ヒムヤル」もよく登場しているが説明がないのでわかりにくい。ヒムヤルはイエメンにあった王国のこと。
(4)問題点
本書では、「支那」という用語が数か所で使われています(p104-5、113、128)。英訳ではchina,chineseと訳されている部分です。この用語は日中間の政治問題である、という話とは別に、この時代を扱った書籍であるからには、学術的にこの時代の訳語として使うのは時代錯誤です。「支那」の由来は秦の名(上古音qín)がユーラシア西部へ伝播し、2世紀のプトレマイオス『地理学』ではギリシア語Σῖναι、ラテン語版ではSINAE(シナエ)、CΪNAI(キナイ)、古典ギリシア語表記ではΣῖναι(Sinai、シナイ)、 Θῖναι (Thînai、ティーナイ), Θῖνα (Thîna、ティーナ)と記載され、インドではCīna、或いはCīnasthāna(チーナスターナ)と呼ばれていたものです。11世紀頃のペルシア語では、マーチーンと呼ばれ中世アラビア語発音ではal-Ṣīn/スィーンと記載されていました。
この用語が中国から西方へ赴いた役人や僧に伝わり、中国に逆輸入され、西方発音が漢字に翻字されました。しかし逆輸入された言葉が「支那」の文字に翻字されたのは唐代の玄奘の頃以降であり、それ以前の南北朝時代では、「秦」「真丹」「震旦」「振丹」などと翻字されていました。本書で「支那」が登場している箇所は、コーバーズ王とアヌーシールワーンの時代であり、つまり南北朝時代のことであって、隋以降ではありません。従って、本書における「支那」の登場箇所では「秦」「真丹」「震旦」「振丹」などと翻字すべきであり、「支那」を用いたのは明確な時代錯誤となるのです。
また、当時「中国」も史料によく登場するため、「中国」と訳すことも可能です。更にまた、そもそもCīnaの漢字表記は仏教界に限られていたため、仏教が登場しないタバリーの著作に仏教用語を当てる必然性はまったくありません。当時のアラビア語発音が「スィーン」であり、、当時の中国史料に登場する漢字表記されている諸国や諸民族も日本語訳ではカナ表記されているわけですから、al-Ṣīnも「スィーン」とカナで表記とするのが一番が自然に思えます。ペーパーバック版の増刷時や電子書籍版では表記を修正すべきだと思います。
なお、第三巻「イスラエル王国の興亡」のp198では、「中国」となっているのをたまたま見つけました。第三巻の書籍版は 2023/2/16発売ですが、電子版は2018/4/4となっています。恐らく本巻の内容が含まれている「タバリーのシャーナーメ」を出版した2014年当時は「支那」の表記だったものが本巻にはそのまま流用されていて、その後に出した第三巻の頃には「中国」の表記を利用するように改めた可能性がありそうです。できれば本巻や「タバリーのシャーナーメ」の部分も書き代えて欲しいものです。
※この記事は将来出版販売企業のサイトに転載する可能性があります。他のサイトに転載した場合でも、オリジナルは本記事であり、転載されたwebサイトの管理企業は、自社サイトに転載された文章に関してのみ、削除変更等の権利を持ち、オリジナルである本ブログの本記事については一切の権利を有しません。販売サイトに掲載されるユーザーの書評に関する著作権にはグレーな部分があり(執筆者の著作権を認めないところもあれば、サイト企業とユーザー執筆者の権利共有とするサイト、ユーザーの権利が販売サイトの権利に優先するが、販売サイト自身も権利を持つ、とするサイトまでさまざまなパターンがある)、近年勝手に削除され、理由を問い合わせても返答されないパターンが出てきたため、その場合に、記事を執筆者自身が保有し公開する権利を確実にするためにこの文言を入れています。
この記事へのコメント
『タバリーによるシャーナーメ・下巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』
この二冊の違いは何でしょうか?
どちらも、タバリー『歴史』、の翻訳で、
『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』
の方が完全版、ということでしょうか?
また、
『タバリーによるシャーナーメ・上巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
こちらは、神話のようですが、こちらも、タバリー『歴史』、の翻訳なのでしょうか?
翻訳された『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』シリーズに内容が該当する本が無いので別の本の翻訳なのでしょうか?
これから購入する場合、
『タバリーによるシャーナーメ・上巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』
の二つを買えば良いのでしょうか?
マコト
『タバリーによるシャーナーメ・下巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』
の二冊はキンドルアンリミテッドで読んでみて、内容がほぼ同じで、『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』の方が内容が多い完全版?、というのは分かったのですが、
『タバリーによるシャーナーメ・上巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
の完全版に当たるものは無いのでしょうか?
古代世界の午後
一方、『上』に収録されている古代ペルシア史はほぼ神話だけなので、『上』に記載のない古代ペルシア史の記述は、『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』』の1~3にはほとんどないのではないかと思います(確認したわけではありませんので推測ですが)。この意味では、古代ペルシア史だけにご興味があるのであれば、第1~3巻は購入しなくても良いのではないかと思います。
以上でご質問の内容を満たす回答となっていますでしょうか
マコト
歴史に関しては、第四巻を購入したいと思います。
神話にも興味あるのですが、上巻は1〜3巻からの抜粋ということでよろしいでしょうか?
繰り返しになりますがこれから購入する場合
『タバリーによるシャーナーメ・上巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』
の二冊を買えばペルシャ関連はコンプリート出来る、という認識でよろしいでしょうか?
古代世界の午後
『タバリーによるシャーナーメ・上巻: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』
『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』
の二冊を買えばペルシャ関連はコンプリート出来ると思ってよいと思います。ただし、私は1~3と上巻を詳細に比較したわけではないため、上に記載のないペルシア関連の記載が1~3に若干存在する可能性はあります。しかし普通に考えますと、後世になって成立した古代ペルシア神話が、アラブ諸族の伝承で伝わっている可能性はほぼないと思われるため、上巻だけで十分だと思います。
4巻と下巻の比較に関していえば、例えばアノーシールワーンの章は4巻では三章に跨っているものが、下巻では1章にまとめられていて、今4巻の相当分を確認したところ、頁数的には下巻のアノーシールワンの章と同じなので、下巻がかなり正確にペルシア関連の記載だけ抜粋している可能性はあります。しかし、4巻338頁、下巻272頁という差を見ても、下巻に採用されていないペルシア関連の記載が4巻の方にある可能性はあるため、4巻と下巻の価格もあまりかわらないことからも、4巻を購入しおく方が取りこぼしがない、という意味ではお奨めです。そこまで細かい抜粋取りこぼしは問題ではない、ということであれば、下巻でも良いかと思います。
マコト
さて、アマゾンで歴史本を探しているときに、たまにレビューをお見かけし拝見しております。
有用なレビューが多く助かっております。
今回たまたまブログを発見しました。
引き続きご活躍を期待しております。
ありがとうございました。
古代世界の午後
マコト
ペルシアの歴史を調べるうえで対ローマ史に興味を持ち、さらに緩衝地帯であるアルメニアの歴史に興味を持ちました。
アルメニアの対パルティア・ペルシア・ローマの歴史に興味があります。
wikipediaでアルメニアの歴史のページを見ると、
佐藤信夫『新アルメニア史 - 人類の再生と滅亡の地』泰流社〈泰流選書〉、1988年
藤野幸雄『悲劇のアルメニア』新潮社〈新潮選書〉、1991年
ジョージ・ブルヌティアン(英語版) 著、小牧昌平監訳、渡辺大作 訳『アルメニア人の歴史 - 古代から現代まで』藤原書店、2016年
が参照されており、特にアルメニアの対パルティア・ペルシア・ローマ関連では佐藤氏と藤野氏の著作が多く参照されています。
最新の著作であるジョージ・ブルヌティアン著でもアルメニアの対パルティア・ペルシア・ローマの歴史は詳しく書かれているでしょうか?
アマゾンでレビューを書かれており全作読まれているようなので教えて頂けたら幸いです。
古代世界の午後
Wikipwdiaのアルメニアの歴史の記事の最初の投稿を見ますと、2015年の投稿で10万バイト、最新版が11万7000バイトなので、加筆量は多くはありません。記事の対象となる時代の部分、「ペルシアとマケドニアによる支配」「古代王国の成立」「パルティアとローマの緩衝地帯として」「世界最初のキリスト教国化」「ペルシアによる再度の支配」は、初稿と最新版ではほとんど違いはありません。初稿が書かれた2015年は、まだブルヌティアン本の日本語版が出版されていなかったため、藤野本や佐藤本を利用して初稿が書かれたため、この二冊の出典注が多いのでしょう。これがブルヌティアン本の註釈が少ない最大の理由だと思います。初稿の段階でブルヌティアン本がでていたら、恐らくブルヌティアン本の注だらけになったのではないでしょうか。
佐藤本は手もとにないのですが、この本は1地図あたり1頁使ったアルメニアで出版されている地図の引用が多く、文字数は多くはないため、情報量は多くはないと思ってよいと思います。藤野本では、アレクサンドロスの死からササン朝の滅亡部分はp36~50、ブルヌティアン本の同部分は、p52~114までなので、この三冊のうちではブルヌティアン本の情報量が圧倒的です。この本は巻末の資料一覧の情報量も多いので、日本語書籍のアルメニア史本ではもっとも詳細なものといえるでしょう。
マコト
大変助かりました。ありがとうございました。
古代世界の午後
お役に立てて何よりです。
マコト
ビザンツ帝国史
尚樹啓太郎
こちらの書籍、対ペルシア関連の情報量はどれほどでしょうか?
古代世界の午後
マコト
古代世界の午後
遅くなってしまい申し訳ありません。
実は私はこの本は所有しておらず、図書館で完読したものの、必要な部分だけをコピーして持っています。コピーは全体の1/3くらいの量なのですが、章ごとにまとめてコピーする、ということはしておらず、例えばある章は前半だけ、ある章はそれこそ2頁おきにコピーする(つまり見開き2枚のうち1枚づつ)などかなりバラバラにコピーしていることが本日コピーを見返してみてわかりました。
そこで目次のpdfをこの記事の末尾にアップしたので、それをDLしてご参照いただくことでおおよその確認したい部分の見当をつけていただくことは可能でしょうか?
その上で、「xx頁からyy頁の内容について概要を知りたいので手もとのコピーにあるかどうか」を指定していただければ、その部分のコピーの有無を確認し、あれば内容をざっと見てお伝えすることは可能です。もしコピーにない部分であれば、来週末であれば、図書館に確認に行くことは可能です。
お待たせした上こんな回答で申しわけありませんがご検討の程、よろしくお願いいたします。
マコト
目次をアップロードして頂き、だいぶ分かりました。
ペルシア関連の記述は大体以下のようです。
p99-101
p134-142
p160-164
p174-176
p191-192
p229-242
p317-331
図書館に行ってもらうというというのは大変申し訳ないので、手元で確認して頂ける範囲で教えて頂ければ助かります。
よろしくお願いします。
古代世界の午後
ご返信ありがとうございます。枚数は多くはなさそうですが、今日明日は時間が取れそうもないので、明後日にご指摘の部分を確認することとさせてください。もう少しお待ちください。よろしくお願いします。
古代世界の午後
99-101 実質100頁に6行記載。421年バフラーム5世時代のニシビス包囲
134-142 実質136頁の16行のみ(ほぼ1頁分)。502-5年のカワードによる北シリア戦争
160-164 カワード末年527年のラジカ・イベリア戦役前半(3頁分くらいあり比較的詳しいが、ギボンも同様にラジカ戦には詳しいので、もしかしたらこのあたりの記載はギボンを底本にしているのかも。尚樹本は脚注も出典の記載もないので史料出典がわからないのです)
174‐6 ラジカ戦役続き。4頁まるまる記載。
191-2 1頁分がペルシアの話で、540年のホスロー一世のシリア侵入が前半、後半はラジカ戦争
229-242 231に4行、232に4行、ホスロー一世末年のシリア侵入
237‐8 7行。ホルミズド4世末年からホスロー二世の即位まで
242 9行。ホスロー二世のビザンツ侵攻開始
317‐331 317‐18 半頁、19‐25は4ぺージ+地図が2頁。ホスロ二世との戦い
全体的に節題にペルシアを含む節であっても、中身の半分くらいはビザンツ側の情勢で、ペルシア側の話は半分くらいです。ギボンを見直して確認したわけではありませんが、全体的に話の密度がギボンのササン朝の記載を読んでた時の印象に似ています(ラジカ戦役とホスロー二世侵入の話が多いところ)。
この本は、史料出典の記載がないため、ギボンを下敷きにして書いていたとしても私は驚きません。むしろこの記載であれば、ギボンですませても良いくらいの印象を受けます。
とりあえずこのような記載で返信とする次第です
マコト
詳しく行数まで教えて頂き大変恐縮です。非常に助かりました。
ペルシア関連の記述は少なめのようですね。
ギボンとは「ローマ帝国衰亡史」かと思いますが、そちらは所有しておりますので、そちらで十分かもしれませんね。いろいろと検討してみます。
この度は大変お手数おかけしました。
誠にありがとうございました。
マコト
尚樹啓太郎「ビザンツ帝国史」を読まれた時は、全体的にもギボンと似ていると感じられましたか?
古代世界の午後
もし若干の費用を負担してよく、近隣の図書館に尚樹本が置いてないという状況にあるのであれば、国会図書館の遠隔複写サービスを利用するのも一つの方法かもしれません。恐らくご希望の部分だけであれば送料含めて1K¥前後で済むような気もします。この部分を読むだけで尚樹本を購入するというのは一般的にはありえないでしょうし、出典がない古い記載の場合、あくまで「基本史料にそう書いてあります(近代歴史学のスクリーニングを受けていない段階の”史実”)」ということが知れるだけに留まる可能性も高いわけですから、ギボンで十分、という結論もありえるかと考える次第です
古代世界の午後
マコト
国会図書館のアドバイスありがとうございます。ペルシア関連だけであれば有りな選択ですね。検討してみます。
ただペルシア関連以外のビザンツ史自体にも興味はあるのですが、高額ですので考え所ですね。よく考えてみます。
ありがとうございました。
古代世界の午後
尚樹本は私も価格の問題がなければ欲しいと思っています。ちくま文庫あたりで1冊2千円の三巻本くらいにして出してくれてもいいと思うのですが、、、残念なことです、、、
マコト
マコト
日本でペルシア・パルティア関連の歴史書ってかなり少ないですよね。
通史としてあるのは、
講談社世界の歴史シリーズ9 ペルシア帝国
ペルシア帝国 青木健
ぐらいでしょうか。青木本はパルティア関連は無しです。
パルティア本であるのは、
ローマとパルティア シェルドン
パルティアの歴史 デベボイス 山川出版社
パルティア見聞録 相馬隆
ぐらいでしょうか。
後はローマ史本のペルシア関連記述となるわけですが、ローマ史も好きなのである程度ローマ史本も所有していますが、
ペルシア関連記述がある程度ありそうなローマ史通史本だと
ローマ帝国衰亡史 ギボン
後期ローマ帝国史1 クリコフスキ
ローマ人の物語(歴史書ではないかもしれません)
所有していませんが先日詳細を教えて頂いた、ビザンツ帝国史 尚樹啓太郎
通史以外
古代ローマ名将列伝 ゴールズワーシー の第15章
などでしょうか。
しかし当然ですがローマ中心でペルシアはサラッと触れる程度ですね。
なのでペルシア本が増えて欲しいところですが、日本でペルシア本が少ない理由は、
1,そもそもペルシアの文献資料が少ない
2,日本でペルシア史への興味が少ない
などでしょうかね?
最後になりますが、ぱっと思いつく程度で結構ですので、お勧めのペルシア史関連記載本がもしあれば教えて頂けたら幸いです。
返信はお時間があればで結構です。
長文になってしまいすみません。
マコト
以前ご相談した
アルメニア人の歴史 ブルヌティアン
もありました。
マコト
パルティア史関連記載本でも有難いです
古代世界の午後
日本でペルシア本が少ない理由もご指摘の通りかと思います。本日感想記事を書いていた岡田恵美子著『言葉の国イランと私』で感じたことですが、日本におけるペルシア語とペルシア文学の研究の歴史は、イラン史学よりも浅いようです。古代イランの場合、1901年生まれの足利惇氏が先鞭をつけましたが、ペルシア語とペルシア文学は、1925年生まれの黒柳恒男氏が日本発のペルシア語/文学専門家なのだそうです。従って、1,2に加えて
3.日本における研究歴が浅く、人材層も薄い
ということがあげられそうです。
史料が少ないことは大きなハンデですが、 同じくらい史料の少ない仏教以外の古代インドに関しては、日本で映画『バーブバリ』がそこそこヒットし、最近ではマウリヤ朝チャンドラグプタの漫画が連載していたり、才能ある作家さんがうまくエンタメ化すれば少しは需要が喚起できると思うのですが、、、ちょうど本日久々に末期ササン朝の史料を調べていたのですが(明後日あたり公開します。本日手違いで公開されてしまっていましたものですが)、末期ササン朝はほぼ同時代のアルメニア語文献史料が結構な量で残り、多くの人名官職名が刻まれた封泥が出土していて、うまくまとめれば、末期についてはかなり細かい歴史記述が可能な筈なのですが、あまりにニッチすぎてハードルは高いものがあります。
あとこの地域は戦乱が多く、戦乱ゆえに開発も進まず、開発が進まないと新しい遺跡も見つからず、政情の緊張から各国間の行き来も限定されているため、発掘資金の源泉となる観光客も集められない、という事情もあると思います。
古代世界の午後
通史は既に挙げられているため、通史以外の日本語ササン朝とパルティア重要本は以下のものがあります。
伊藤義教『古代ペルシア 碑文と文学』岩波書店、1974年
第一部はアケメネス朝の碑文翻訳、後半はササン朝時代の文学の抄訳(8‐9世紀頃に成立したパールシーが編纂した中世パフラヴィー語文献だが、内容はササン朝時代に遡ると考えられる)
グルガーニー著『ヴィースとラーミーン』(岡田恵美子訳平凡社)
11世紀の小説ですが、パルティアの伝説を下敷きにしたものとされ、実際登場する景観はパルティア時代の文物を反映している可能性があります
『ア フガニスタンの歴史と文化』明石書店
パルティア・ササン・クシャン時代のアフガニスタンについての情報がまとまっています。ブルヌティアン本のアフガニスタン版みたいな本です
宮本亮一博士論文『バクトリア史研究』
https://cir.nii.ac.jp/crid/1910302385650947456
通史本には載っていない90年代にアフガニスタンで出土した文献史料の解説と翻訳が載っていてバクトリア史については有用です。通史ではないので詳細すぎますがおすすめです。
あと関連書籍でバクトリア地方の通史的な本として
『 バクトリア王国の興亡 (ちくま学芸文庫) 』 2019/3/8 前田 耕作 著
『大月氏: 中央アジアに謎の民族を尋ねて (東方選書 34) 』 1999/12/1
小谷 仲男 著)
というものがあります。後者はクシャン朝の本です。
取り急ぎ本日はこのくらいです
古代世界の午後
https://zae06141.client.jp/iranlink.html
マコト
書籍紹介していただきありがとうございます。
教えて頂いたサイトは存じ上げませんでした。活用させていただきます。
ありがとうございました。
マコト
おっしゃる通り、「ササン朝・パルティア」に関して質問させていただきました。
古代世界の午後
マコト
エフタル、についてなのですが、
ペルシア通史本にサラッと出てきますが、
ササン朝を苦しめた存在として興味が湧くのですが、
エフタルに関する記述が多めの書籍ってあるでしょうか?
資料が大分少ないらしいので難しいでしょうか?
wikipediaのエフタルのページだと中国の史書からの引用が多いようです。
wikipediaには、先日教えて頂いた
『アフガニスタンの歴史と文化』明石書店
も参考書籍として記載されてますが、アマゾンでは12000円以上と高騰してしまっているようです。
岩村忍 文明の十字路=中央アジアの歴史(原著 講談社 世界の歴史 12 中央アジアの遊牧民族) 1977)は所有していますが、エフタル関連はほぼ無し、でした
古代世界の午後
恐らくエフタルに関してもっともまとまった史料はタバリーであり、次に宋雲の旅行記なのではないかと思います。タバリー日本語訳はお持ちだと思います。宋雲旅行記は東洋文庫『法顕伝・宋雲行記』p181-182で、次に90年代に発見されたバクトリア文書だと思います。その他まとまった史料は出土貨幣となるため、貨幣に関しては研究論文をあたることになると思います。
『アフガニスタンの歴史と文化』では、p259の後半から262の前半のわずか3頁がエフタルの通史となっていますが、出典論文が多数註釈されているため、この部分は有用だと思います。シムズ・ウィリアムズのバクトリア文書研究まで言及されています。↓にこの文書の解説があります。
https://gengo.l.u-tokyo.ac.jp/hkum/bactri_j.html
私のサイトの↓記事ではバクトリア文書でササン朝に言及している部分を年表的にまとめています。
https://zae06141.client.jp/iranhistory_eastern_iran.html
宮元亮一博論『バクトリア史研究』↓のp99-101でエフタルの通史的に研究諸説が言及されていてこれも有用です。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1910302385650947456
最近の貨幣研究は、主にインド方面に侵入したエフタルについてで、これについては、稲葉穣『イスラームの東、中華の西 7~8世紀の中央アジアを巡って』のp63-71で最新の貨幣と出土銅板文書研究によるエフタル研究状況が解説されています。巻末の関連論文紹介があります。
ある程度まとまった情報のある日本語書籍はもしかしたら上記のものくらいかも知れません。英語本ですと中国人著者の、↓をみつけました。Kindle版で4835¥となっています。2021年出版とのことです
A STUDY OF THE HEPHTHALITE HISTORY Kindle Edition
by 太山著 余 (Author)
https://www.amazon.com/dp/B0C73BNXMR/
あと英語本ですと、『ReOrienting the sasanians』 (2017)のp87‐175頁で最新エフタル研究の論文が4本掲載されています。この本はササン朝時代の東方領土を扱ったもので、第一章がシースタン、2章がクシャン朝、3章がクシャノササン朝、4章ー8章がキダーラとエフタルとアルホン関連となっています。この本は購入時に少し流し見しただけでぜんぜんちゃんと読んでなかったのですが、今目次を見てみると、かなり大々的にエフタルの最新研究を扱っているようです。発見でした。
しかし、、、エフタルってまとまった日本語の資料本がなかったのですね、、、驚くとともに盲点のような感じがしました
マコト
いつも詳しく有用な情報ありがとうございます。
非常に助かります。
やはりエフタル関連の日本語書籍は少ないようですね。
最後に一応確認なのですが、タバリー日本語訳とは
2023/2/7 ペーパーバック『アブー・ジャアファルッ・タバリー『歴史』第四巻: ペルシャの諸王』座喜純・岡島稔訳(アマゾンジャパン合同会社ペーパーバック版)
のことで間違いないでしょうか?
古代世界の午後
個人的な印象ですが、エフタルに関しエピソード的なものが分量的にもっとも多いのが上記巻なのですが、学術書籍では、このエピソード部分はほとんど史実として扱われておらず、例えばペーローズがエフタルと何度か戦争して戦没したことや、戦闘のおおよその年代は学術書でも一応史実として記載されていますが、当時のエフタルの王や戦争の具体的な内容までは史実扱いされることはないように見えます。この点では、分量的にはタバリーより劣るものの、宋雲の行記や、宋雲の情報や北魏への使者の情報をもとに書かれたと思われる魏書などの内容が多く学術書で扱われているのは、同時代史料だからではないかと思われます。主にインド方面のエフタルについての貨幣や碑文や銅板文書の扱や、バクトリア文書の扱いが学術界でメインなのも、同時代史料だからということなのではないかと思います。
タバリーの記載内容も、あの地域が平和になって自由化することで多くの研究者の現地調査や投資の流入による開発が行われ、多数の出土遺物が出てくれば、タバリーに登場する人物の名前をもつ貨幣や文書が出土して、タバリーに登場するエフタルに関する扱いも変わるかも知れません
そういう時代が来てくれることを願うばかりです
マコト
詳しくありがとうございます。
マコト
またまた質問になってしまい申し訳ないのですが、ゾロアスター教関連本についてです。
https://zae06141.client.jp/iranlink.html
以前教えて頂いたこちらのサイトでも紹介されている、
ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史 (講談社学術文庫 1980) メアリー・ボイス
ゾロアスター教の興亡: サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ 青木 健 刀 水書房
ゾロアスター教 (講談社選書メチエ 408) 青木 健
新ゾロアスター教史 (刀水歴史全書99) 青木 健
これらはどのような違いがあるでしょうか?
ゾロアスター教 (講談社選書メチエ 408) 青木 健
は所有しているのですが、ゾロアスター教の歴史や教義等に興味がある場合、他も読んだほうが良いでしょうか?
ゾロアスター教の興亡: サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ
青木 健
のアマゾンレビューをされておられますが、レビューを読ませて頂きましたが、古代イラン史の書籍としての面もあるのでしょうか?
古代世界の午後
こんにちは。
ゾロアスター教史についてはあまり詳しくないため適切な案内ができるようには思えませんが、少し所感を記載します。相違点を強調しますと、
ボイス本、イラン中心のオーソドックスな通史、イル汗国やサファヴィー朝、ガージャール朝などは青木本にはない
青木本メチエと刀水本、通史本だが、古代については「古代アーリア人の宗教」という風呂敷を広げている点と、ウマイヤ朝、アッバース朝などの記載はボイス本にはない内容がある。それ以降はインドのパールシーの話に飛ぶ
メチエ本のアマゾンレビューに「周辺情報がメインになっている」「なじみの薄い事柄についての情報があまりに多く」との記載がありますが、私の所感もこれと同じです。従来の伝統的ゾロアスター教史との違いを出そうとして少しバランスの悪い記載となっているように見えます。周辺情報に飢えている私のような読者にはヒットするかも知れませんが、その周辺情報も針小棒大に膨らまして書いてある印象を受けるものもあり、どこまで信じてよいのかイマイチ不安な印象があります。
とはいえボイス本でも問題のある記載は多く、青木刀水本のレビューに記載があるように「ゾロアスター関連本は、出版年代によって書いてある内容に食い違いがあり混乱しやすい」との印象は私も持っています。
あと青木氏は読者サービス的なところが散見され、、メチエ本のレビューにあるような「ちょっと笑ってしまうような表現も多く」という部分は大抵まず問題がある可能性が高い。こうした点は古代イラン研究者春田晴朗氏などから学会誌やSNSで指摘され、更にネット上での匿名言論などでも再三指摘されてきたところで、そうした懸念が全開で発揮されてしまったのが、講談社新書『ペルシア帝国』だと言えます。
一方、研究書である『ゾロアスター教の興亡』の方は、一部不安な部分も散見されるものの、論点が絞り込まれておりかつ、第三者が出典確認が他書より可能な形で書かれているため、信頼できる本としては著者の他書に勝ります。ただし古代イランの部分は前半第一部の167頁しかありません。イランの古代遺跡レポートなどは日本語ではめったに見ない内容なので、私的にはこれだけでもお薦めではあります。
私が学生時代から親しんでいる古代ローマ史ですと、研究史が長く層も厚く、研究史の解説や多くの史料解題情報が入手しやすく、初学者でも少し学習すれば史料の性質や研究者の傾向などを知ることができ、研究者の層が厚いがゆえに過激で飛躍した新奇な説や、特定の立場による偏向などの情報は悪目立ちし、定番本では比較的穏健な説をとることが多く、論争は手際よく整理されて初学者にも紹介されている印象があります。
これと比べるとゾロアスター教史研究は、質量ともはるかに及ばないため、どれも帯に短したすきに長し感があります。
個人的に、なかなかソロアスター教史に踏み込めないまま今に至っているのですが、その理由として、伊藤義教氏と吉田豊氏の、長安で発見された唐代パフレヴィー語碑文論文のような、パフレヴィー語の文字の形態や細かい文法解析から時代を特定するようなレベルでのゾロアスター教諸伝世文献解題が、日本語では存在していない点が挙げられます(欧米語でも史料解題に特化した本は見かけた気がしません)。その伊藤義教氏の『ゾロアスター研究』の前半は、史料デーンカルドの教祖伝の全訳なのですが、史料解題はありません。
前回ご紹介したエフタルの近年の研究や、青木本『ペルシア帝国』のササン朝後期の記載のネタ本が考古学研究の成果を踏まえた部分が多く、こうした一般的な歴史研究の側では信頼できる研究紹介が多いのですが、ゾ教の場合は上述しましたようにまだ研究分野として成熟していないように感じられるため、こうした事情も、冒頭で「適切な案内ができるようには思えません」と記載した理由の一つです。
あまりお役に立てずに申し訳ありません、、、、
(なお、青木本では、「古代アーリア人の宗教」紹介部分で、マルギアナ・バクトリア考古学複合体に触れていませんが、加藤九祚『シルクロードの古代都市』で1章割いてインドイラン人が、インドイランに進出する以前だと思われる時期の遺跡におけるゾロアスター神殿だと推定される遺跡の紹介をしていてお薦めです)
マコト
今回も大変参考になりました。いつもありがとうございます。
ペルシア帝国、の問題点をこちらで確認させてもらいました。
https://shahr.seesaa.net/article/477472591.html
ありがとうございました。
古代世界の午後