絶版中古高額で入手の難しかった有名書籍の文庫版での再販。ありがたいことです。イメージ通りの内容でした。全13章ですが、論集に近い感じです。基本的に順番に読む構成となっていますが、なかには前の章を読まなくても読める章もありそうです。しかし、分析哲学と科学哲学周辺の論争の部分もあり、そうした部分は議論の前提を理解している人を対象として書かれているため、いきなり本書を読む人にはわかりづらいところもあります。私の場合、時制の話がらみの第四、第五、第九章(特にシーザーの例文のところとか)がわかりずらく、ここはとりあえず完読するにとどめてちゃんと理解して読むのは将来に回しました。しかし時制の話がひっかかったので確かそんな本が近年でていたはず、と検索してみたところ、 『〈現在〉という謎: 時間の空間化批判』(2019年、森田 邦久編、勁草書房)という本を発見。レビューを読み、共著者の物理学者谷村省吾氏の見解に興味が出て更に検索したところ、
『一物理学者が観た哲学 Philosophy observed by a physicist [〈現在〉という謎―時間の空間化批判 森田邦久 編著、 谷村省吾 分担執筆 勁草書房 2019 年発行]への補足として』という長い題名の谷村省吾氏のPDF(こちら)を見つけました。書籍の補足として書いたそうなので、これほどの内容を公開PDFで読めるとは驚きです。110頁もあるため、最初は著者が特に重要だとまえがきで述べている第四章だけ読みました(が、その後全部読みました。しかしやはり著者のいうよう、重要なサマリーは第四章でした)。
あとがきで谷村氏は以下のように現在の哲学者、特に分析哲学者を批判しています(ただしその後、哲学者全体のことではなく、分析哲学者に限る、とか、分析哲学者の中でも 『〈現在〉という謎: 時間の空間化批判』の共著者のことである、といくつかの場所で補足しています(「この文章で「哲学者」と言うときは、基本的に上の3人を念頭に置いている」(p56)「哲学者たち(とくに私の相手をしていただいた御三方」(p69)など)。
「私には、哲学者たちの主張はポスト・トゥルース化しているように読めた。彼らは、経験事実や自然法則に束縛されず、言いたいことを言っているだけであり、自分はこう思うということがらを客観性を装って語っている。自分では客観論を述べているつもりなのだろうが、中身は主観論である」(p109)
この指摘、私が遭遇した20世紀中盤の歴史理論(思弁的歴史哲学=ダントーのいう実在論的歴史哲学)に感じていたこととかなりイコールです。4章9節「実在論・反実在論論争」では、以下のように述べています(以下、下線と太字化は筆者が強調のために追加したもの)。
「むしろ形而上学的な科学哲学論争が、科学の実態から乖離した議論になっているように見えることがある。一つ例を挙げると、実在論・反実在論論争というのがある。私なりの例を挙げると、「ヒッグス粒子が見つかった」という言明は、「加速器・測定器で得られた電気信号の膨大なデータは、質量 125 GeV、スピン 0 のヒッグス粒子を含む素粒子標準模型を仮定するとうまく説明ができる」という言明の短縮形である。「それで本当にヒッグス粒子は実在するのですか?」という問いに対して「はい、あります」と答えるのが実在論的立場、「いいえ、実在するとまでは言いません」と答えるのが反実在論的立場である。
私は、物理学者というのは両者の立場の間を揺れるものだと思う。電子や光子やヒッグス粒子と呼べるものが実在すると思わなければ物理学者はやっていられないと思う。ただ、ヒッグス粒子がモロにコロンと転がっているという描き方をするのではなく、「そのような数学的モデルで高精度の近似ができるものが実在している」という信じ方を私はしている。だいたい場の量子論で記述される粒子は、ボールや砂粒を小さくしたような「粒子」ではない。「何の実在もなく、我々は幻の影を見ているのだ」とは思えないし、安直に、絵に描いたようなヒッグス粒子があるという考え方もしない。「粒子の実在性までは断言しません」と言う態度も、謙虚なようにも見えるが、それだけだったらうわべだけの謙虚さである。「場の量子論で記述されるところのヒッグス粒子が、確率いくら、有意度いくらであると言えます。ヒッグス粒子がないと仮定すると、偶然この実測データが出てくる確率は 0.000001 以下になってしまいます」と定量的な記述をする方が科学的に正直な態度だと思う」(p95)
これは、歴史学や社会学の文でも同じです。歴史学のうち、特に史料の少ない古代中世に関しては「〇〇であることがわかった」というようなニュースの見出しは、学術レベルでは「伝世文献史料Aに書かれているYという事件は、別の伝世文献史料Bに書かれていないことから疑念を持たれていたが、今回発見された出土史料の断片Cに書かれたKという人物が、Aにも登場していることがわかった。Cにより補完・復元されるAの内容とKの経歴からすると、Yという事件の存在を想定する方がうまく説明できる」というような内容の短縮形だったりするわけです。
しかしこれが概説書や入門書や蘊蓄本に書かれる時には「従来存在していないと考えられてきたYという事件があった」とか、「この年Yという事件があった」「~だった」と、「まるで見て来たこと」のように断定的に書かれてしまい、一部の読者には、Yという事件は史実とされてInputされてしまうようなことがおこるわけです。
歴史学は再現性のある物理や化学などの科学とは異なるわけですが、このレベルでの科学と歴史学の基準的同一性(観測結果+解釈+理論=科学的事実、史料+解釈=史実)は厳守されるべきだと思いますし、実際歴史学論文では達成できている筈です(例外もあるかも知れないし、歴史学の場合、確実性を定量数値で表現することは簡単ではありませんが)。
問題は、歴史言説の場合、ほとんどの読者は論文レベルにあたることはなく、概説書や入門書のまるめられた記述を「史実」として受容してしまい、概説書や入門書はの叙述は往々にしてナラティブ優先であることが多いことから、読者は、読者にとって親和性の高いナラティブほど読みやすく受容しやすいため、そうしたナラティブに配置された「史実」を史実として受容してしまうことにあります。更に問題は、歴史学には、倫理道徳的審判者としての歴史学(道徳主義的歴史叙述)(この用語の詳細は「感想・紹介:『裁判官と歴史家』 1992年 カルロ ギンズブルグ著,上村忠男訳, 堤康徳訳、平凡社」の記事参照(こちら))というものが一定量勢力を持っていた/現在でも少しはもっている、という点にあります。少し後で谷村氏は次のように書いています。
「実在論論争に参加する哲学者たちが気にしているのは、科学は形而上学の領分にまで踏み込むのかという点である。科学が形而下学の分際にとどまって感覚・経験で捉えられることがらの知識を蓄えているだけなら、それでよいのだが、感覚・経験を超えて「本当にある」というところまで科学はコミットするつもりなのか、ということを哲学者たちは気にしているのである」(p96)
歴史学でいえば、「実在論論争に参加する道徳主義的歴史学者たちが気にしているのは、現代歴史学は道徳主義的歴史叙述の領分にまで踏み込むのかという点である。現代歴史学が実証主義の分際にとどまって感覚・経験で捉えられることがらの知識を蓄えているだけなら、それでよいのだが、感覚・経験を超えて「本当にある」というところまで歴史学はコミットするつもりなのか、ということを道徳主義的歴史学者たちは気にしているのである」 という感じでしょうか。「道徳主義的歴史叙述」のところを思弁的歴史哲学(実在論的歴史哲学)、或いは単に歴史哲学に置き代えても良いと思います。
谷村氏は、次の文で具体的な事例に落とし込んでより詳細に論じています、
(物理学者が)「「ヒッグス粒子は実在します」と請け合うことは、メタフィジカルなコミットメントを負うことになる。そういうコミットメントを負うとか負わないとか、どっちの態度が正しいかとか論ずることは、物理学の目的からずれていると私は思う。「じゃあ谷村さんはメタフィジカルなコミットメントを負わない反実在論者なのですね」と言われそうだが」(p96)
これを歴史学の例として次のような文に書き代えてみます。
(歴史学者が)「「プロテスタンティズムは資本主義の精神の原因です」と請け合うことは、メタフィジカルなコミットメントを負うことになる。そういうコミットメントを負うとか負わないとか、どっちの態度が正しいかとか論ずることは、歴史学の目的からずれていると私は思う。「じゃあXXさんはメタフィジカルなコミットメントを負わない反実在論者なのですね」と言われそうだが」という問答とパラレルです。
次に紹介する『歴史学はこう考える』(松沢裕作著、ちくま新書)では著者の松沢氏は、著書と著作紹介のWeb記事で以下のように書いています。
「「文学部系統の歴史家が研究の正当性を担保するものと考えている手続きは、一部の経済学者や政治学者からすれば、何ら研究としての基準を満たしていないように見なされているということに、私は直面せざるを得なかったのでした」(『歴史学はこう考える』p273)
「経済学はもとより、政治学・社会学などの社会科学諸分野において、自然科学を範とするいわゆる方法論の標準化、俗な言い方をすれば「サイエンス」化が隆盛の兆しをみせていることがある。著者は、以前から、かならずしも「サイエンス」化に収斂するわけではない歴史学の方法について何らかの形で説明する必要を感じていた」(Web記事「歴史学はこう考える 著者自身による著作解題」)
松沢氏は、歴史学にはサイエンスではない部分もあります、歴史学の全てがサイエンスになる必要もない、といっているように読めますが、実際には、松沢氏が著作で解説する個々の論文の論証解説は、「ヒッグス粒子が見つかった」という言明に関する、「加速器・測定器で得られた電気信号の膨大なデータは、質量 125 GeV、スピン 0 のヒッグス粒子を含む素粒子標準模型を仮定するとうまく説明ができる」(谷村pdf p95)といったような内容となっていて、谷村氏の指摘する物理学の問題と同じ問題を同じ姿勢で論じています。松村氏の主張は、以下で谷村氏の主張するアカウンタビリティが備わった「サイエンス」な内容となっているように私には見えます。
谷村氏は以下のようにも書いています。
「メタフィジクスにコミットするよりも、「それはこれこれこういう意味において存在すると称しています」と説明するアカウンタビリティの方がずっと重要である」(p97)
「実在論・反実在論という極論のどちらか一方で全科学を特徴付けようと考える方がずれている。科学者たちはこういう論争をまったく必要としていない」(p97)
私は、歴史学も同じはずだと思っています。にも拘わらず、「ヒッグス粒子は実在します」と請け合わないと「メタフィジカルなコミットメントを負わない反実在論者なのですね」との同等のことを歴史に関しても言って来る人(だいたい思弁的歴史哲学(実在論的歴史哲学)方面の人や道徳主義的歴史学者)が20世紀には多かったし、21世紀の現在でも散見されることは現在における課題の一つなのではないかと思います(更に、面白おかしいエピソードや、思い入れが根底にあるナラティブを史実のように叙述する叙述者も、読者にはメタフィジカルな「史実」として受容される、という点で同じ問題が発生しています)。
結局のところ、神という記号が神そのものであり実在である、という至上命題のために実在論にこだわった西欧中世の実在論者と、神はもちろんいるが、我々が表象する「神」は記号に過ぎない、という論に行き着くことを恐れず唯名論を唱えた唯名論者の論争が、現在の歴史学では、道徳主義的歴史或いは倫理的歴史の実在性を主張する道徳主義的歴史学者(≒思弁的歴史哲学者/実在論的歴史哲学者)VSサイエンス的歴史学者(≒分析的歴史哲学者)として再現している、と考えることができるのではないかと思うわけです。
歴史は科学だ、とのフレーズを用いる歴史学者の方々は、ぜひ、谷村氏が主張するような意味での、及び松村氏が経済学や政治学に対して用いる意味での「サイエンス」な歴史学を目指して欲しいものです。
ところで、谷村氏は、哲学者を形而上学者と同一視する記述がいくつも出てきます。例えば以下の部分です。
「こういう議論になるから私は、哲学者(形而上学者)は現実世界がどうなっているか気にせず、言葉を用いて想像・描写できることはすべて検討する価値があることとして取り上げるつもりらしい、という感想に至る」(p16)
「これは議論の相手に対するリクエストだが、形而上学的議論は物理理論と整合しなくてもよいし現実世界で経験できないことを無制限に述べてもよいと思われているのであれば、そのように表明してほしい」(p54)
「哲学者は「これは形而上学の問題であって経験的方法ではわからない」などと言い出す。「形而上学」は哲学者の切り札である。哲学者が「科学では問題とされないことでも、形而上学的には意味のある問題である」と言うのは、「科学者はそんなことは解決済みだとか検証不可能だと言うけれども、オレの気は済んでいない」と言うのと同義だと解釈すると私にも意味がわかるようになった。なるほどこれではいつまで経っても問題解決には至らないだろう」(p74)
「私から見える形而上学は、各哲学者の各主義における主観あるいは想像を述べているにすぎないように見える」(p87)
分析哲学は、哲学の科学化を目指した運動という一側面もあると理解していたため、形而上学(≒実在論)と同一視されていることに驚きましたが、少なくとも谷村氏の文章を読んでいる限りは、単なる思考実験学(私が理解する「現代哲学」)に留まらず、言語と論理だけから成り立つ認識を実在だと考えてしまっているように見えます。えー!?そうなの?と思っていたところ、谷村pdfを読んで直ぐに、たまたま積読していたというだけの理由で読んだ野家啓一氏の『はざまの哲学』p232に、
「現代の分析哲学は、一方では縷々述べて来た「プラグマティズム的転回」によるポスト分析哲学の方向へと、他方では本章では触れられなかったが、論理実証主義によって廃棄された「形而上学」の時ならぬ復権の方向へと向かっている」
とでてきて、もしかして谷村氏の指摘する部分はこの部分なのかも、と一応納得はできました。個人的には、この形而上学的分析哲学とは、中世普遍論争の、「認識論的転回」に至る前の、アリストテレスの論理学や存在論に基づいた議論をしていた頃の唯名論のようになってしまっているのではないか、と感じています。そのうち実態を調べてみたいと思います(あまり興味はないが)(※唯名論と実在論の初心者向け概要は、『インド哲学教室2 インドの唯名論・実在論哲学:大乗仏教の起源とことば』のアマゾンレビューに記載していますので必要であればご参照ください)。
さらにもう一つ、ところで、
「谷村氏が批判する科学哲学」を専門とする野家氏の『はざまの哲学』では、谷村氏と似たような哲学認識がでてきました。
「私が分析哲学に親和性を感じたのは、秘教性や党派性を排し、明確な問題設定に基づいて、あくまでも事柄に即して議論ができるその開かれた性格に対してであった。それに対して、フッサールやハイデガーの大陸哲学は、まず彼らの特異なジャーゴンに習熟することが先決であり、哲学を研究するとは、彼らのテキストの訓詁註釈に沈潜することに見えたのである」(p233 )
野家氏は学部時代は物理学科であったため、哲学に対して谷村氏と似たような認識を持っていたことが書かれています。理系の人ならそう考えるでしょうね、という気がします。
私も哲学著作、特に現代哲学の秘教的なジャーゴンには飽き飽きしていたので、以前、『フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書) 岡本 裕一朗』のレビューに、次のような文を書いたことがあります。
「同様にデリダの章末でも「情報遠隔通信に対してどうかかわっていくのか、具体的なことは殆ど不明なのだ。これを具体的に理解する作業は、おそらく私たちに残されているのだろう」(p206)とありますが、もしかしたら意味のないかも知れない神学を継承して解析する(そこに投資する)必要があるのだろうか?との印象が残りました。言語学や認知科学、脳科学、心理学、知識社会学、コミュニケーション理論やIT技術などの進展で、デリダの目指したものをデリダを介さず、最新の、或いは将来の科学技術でもっとわかりやすくスクラッチ&ビルドできる余地はあるのではないか?などと思ってしまいました。
端的に言えば、意味不明で難解な業績は、それを解析するための投資が必要だと思わせるマッチポンプなだけで、実は虚業/神学/文学なのではないか?というイメージがどうしても残ってしまいました」
このレビューは8年間程掲載された後、昨年のどこかで削除されていまいました(削除を発見したのは11月で、それ以前に削除確認をしたのは2024年の年初でしたのである程度の時期を特定できます。あとでブログの方にレビューを投稿しておくことにします)。きっと、誰かを怒らせたので、怒った誰かが削除依頼をしたのでしょう。現代哲学の悪口を書いているわけですが、谷村氏はこれと似たようなことを舌鋒するどくこれでもか、と列挙していています。以下印象に残った10か所全部引用します。
①「物理学者には、哲学者は無謀な大問題をぶち立てて徒手空拳または自らに課した束縛ルールで挑んでいるように見える。「徒手空拳」と私が言っているのは、「使ってよいのは原則、言語のみ」という哲学の方法である。しかし気をつけて見ていないと、哲学者もときどき自分の感覚・経験をこっそり推論に滑り込ませる」(p23)
②「哲学者たちは、あなたがたのおそらく唯一の武器である言葉と論理さえ使いこなしていない。時間の始まりがあることを証明したと言いながら、論理の穴だらけの、証明になっていない証明を書いている。問題の共有を呼び掛けていながら、言葉の定義を与えず、問題を明確に定式化もせず、後で言葉づかいをブレさせている。道具主義的立場から現在主義を支持したいと言いながら、理論概念と観察経験との対応づけを与えていない。あなたがたは、あなたがたが「やっている」と言っていることを、やっていない」(p58)
③「もう一つ、私が尋ねたいのは、主観的意識経験は実在するか、とか、時間の経過は実在するか、とかいった問題は、概念の言語分析だけで決着がつく問題だと哲学者の皆さんは本気で思っているのだろうか?という問いである」(p59)
④「現代の哲学者たちは本当には現実世界に関心はなくて、現実世界を模写した言語思考世界にのみ関心があるのではないかと私は疑う(p60)
⑤「哲学者は、科学者が科学を研究する以上のことをやるのか、それとも個別科学をねたにして、あさっての方向を向いたメタ的議論を繰り返すのか」(p62)
⑥「科学的な実験・観察を拠り所とせず言葉と想像力のみを頼りとする哲学者」(p68)
⑦「哲学者たち(とくに私の相手をしていただいた御三方)は問題提起と相対化(何でも one of them と考えること、まだ他の可能性があると考えること)は得意らしい」(p69)
⑧「先代の哲学者があれこれ論じた結果を受けて、「ここまでの結果はおおむね正しいと認めて、議論を先に進めましょう」とは考えないらしく、何度でも議論は振り出しに戻る。むしろ彼らは、先代の哲学者を超えるような BIG QUESTION を言いたがっているようにさえ見える。哲学者たちは、さまざまな前提と疑問のコレクションには興味があるらしいが、正しい結論をストックすることには関心がないように見える。
これらが哲学と科学の大きな違いになっていると私は思う」(p70)
これらが哲学と科学の大きな違いになっていると私は思う」(p70)
⑨「哲学者の議論は、提唱者・創始者の名前を冠した学説をいったん学んで批評するという形をとることが多いように見える。人名を冠さない学説もあるにはあるが、一つのテーマに対して「○○主義(-ism)」(あるいは「○○説」や「○○論」)という呼称の学説が複数あり、これらの主義を戦わせるか、さらに別の主義を追加するという形で議論が展開する。そして、いつまで経っても「主義」間の論争に決着が着くことがなく、だらだらと生ぬるい議論を続けているように見える」(p73)
⑩「哲学が対立する複数の「○○主義」をいつまでも抱えているのは、白黒決着をつける方法論が哲学自体の中にないからだ、と私は見ている。哲学者たちは決着に関心がないのではないか、もっと言うと、永遠に決着を着けたくないと思っているのではないか、と私は邪推してしまうほどである」(p74)
この⑨は、歴史学にも当てはまることです。ヘーゲル主義やウェーバー、進化論や、地政学と結びついた生態史観や文明論など、形を変えて何度でも歴史学の成果を総合する新しい史観として復活し続けています。ただし重要なことは、これらが古代から似たような議論があったり、近代以降に限っても何度も復活しているのは、科学が発展してもなかなか決着のつけようのない問題であり、ある意味人類にとってかなり普遍的な問題だからであって、思想史として議論されるべきものです。ところが、歴史著作を編む著述家は、それが歴史学者であろうと作家であろうと(ヘーゲル、マルクス、ウェーバー、スペンサー、シュペングラー、トインビー、フランシス・フクヤマ、ハンティントン、マクニール、ジャレド・ダイアモンド、ノア・ハラリ等々)であろうと、これが真実の歴史だ!みたいな煽り文句で著作を宣伝したりするわけですが、それが真実の歴史(=実在論的歴史哲学)だったりするようなことになるわけはないのであって、読者も、これら壮大な史観たちは、簡単に決着がつくようなものではない、と知っておく必要があります(近年だと、哲学分野では、「新実在論」なるものに飛びついた一部の読者が、こうした読者のよい事例となっています。谷村氏について検索していたら、彼はマルクス・ガブリエルの新実在論を科学の立場から検証した論説を出しているそうです。そのうち読んで見ようと思います)。
哲学批判を重ねた上で、最後に現代哲学の意義を谷村氏なりにまとめています。この内容も、私の考えとほぼ同じなので当該箇所を全文引用します。
「最近は哲学者が心理学・認知科学の研究を手伝うこともあるそうである。例えば、「自分の意思でボールを落とす」のと「手からボールが滑って落ちる」の違いは何か、意思の働きがあるとかないとかを何をもって判定すべきか、といった問題に対して哲学者がいろいろな論点を提供してくれることはあるかもしれない。人工知能が世界を理解するとはどういうことかという問題提起も丁寧な論点整理が必要だろう。この種の、曖昧な問題設定に対して考えられること・チェックするとよいことを第三者的な視点から提案してもらえるのはありがたいと思う。どうしても科学者は自分が訓練を積んできた視点・範囲・方法でものを考えるので、考慮外に漏れてしまうことがらが生じやすい。こういう場面こそ、「論点出し尽くし」の哲学的思考の出番だと思う。
自動運転の自動車で事故が発生して人がケガするなどの事態になったら、誰がどういう形で責任をとるべきなのか、など、新しいテクノロジーが、かつては実際上問題にならなかったことを実世界で起き得る問題にしている。ロボットの事故やドローン兵器、広い意味でのセキュリティとプライバシーの問題、出生前診断・遺伝子診断・ゲノム編集などについても、哲学者が観点・論点を出して整理してくれるなら歓迎されるだろう。人間の就職先や結婚相手を人工知能に選んでもらう(候補を絞ってもらう程度かもしれないが)ことの是非も哲学者が考えてもよいのではないか。問題の立て方に大きな曖昧さを伴う研究分野や、社会の変化に伴って新しい問題が起こると予想されるがどういう問題が起こるのか網羅的な予想がつかない分野においては、「アイデア屋」、「論点出し尽くし屋」としての哲学者は、適切にアプローチさえすれば他分野の研究者たちから歓迎され、よいコラボレーションができるだろうと思う」(p105)(太字化は筆者)
岡本氏の『フランス現代思想史』のレビューに以下の文を書きました。
「 著者が最近出した新著『いま世界の哲学者が考えていること』のあとがきに「哲学者が(現代の)具体的な問題に、直接答えているわけではないからです。哲学者の議論は抽象的なものが多く、たいてい直接的な指針を与えてくれない」(p313)とありますが、この姿勢自体にこそ現代思想(というより専業哲学者の)アクチャルな問題があるように思えます。
具体的には、本書p167でドゥルーズの章を閉じるにあたり、「ドゥルーズは、管理社会にどう抵抗するかについて、何も語るところがなかった(中略)、それに対する答えは、残された世代の宿題となった」とあり、一見ドゥルーズが重要な指摘をしてその遺産を後の世代が引き継ぐ、という意味にとれる文章となっています。また、ドゥルーズの「SF作家の助けを借りなくても(p163)」「哲学は概念を創造することを本領とする(p251)」という引用があります。暫定的にでも思想家なりの答えが出せず指摘するだけだったり概念を出すだけなら「SF作家で十分なのでは?」「諸学界やビジネス界でも日々新規バズワードと概念は誕生しています」と思うわけです」
「論点出し尽くし」「アイデア出し尽くし」は、ドゥルーズの自問「SF作家の助けを借りなくても」で言及されている、SF作家でもできることかも知れません。谷村氏の主張する科学と哲学(≒SF作家)の関係は、歴史学と歴史作家の関係とパラレルであるような気がします。歴史学の成果である史実とは無関係に、さまざまな歴史解釈や想像力のアイデア出し尽くし屋としての歴史作家、という関係です。こうした点からも、谷村氏の科学哲学論は、歴史学の議論にも適用できるものなので、谷村氏の議論、科学哲学における実在論・反実在論の議論は、歴史学にも有用ですし、そもそもダントーの『物語としての歴史』の実在論的歴史哲学の議論も同じ主題のものです。一方、『物語としての歴史』の時制に関する議論については、もしかしたら谷村氏が指摘する、形而上学的議論になってしまっているのかも知れません。この意味でも、『物語としての歴史』と谷村氏のPDFは、同じ主題の書籍として、相互に補完しあう著作として有用だと考える次第です。
なお、最後に、谷村氏が、科学の立場から科学哲学史上の著名な論争についてのコメントを記載しています。これも私は端的にまとめられた内容で非常に有用だと思いますし、内容も妥当なものだと思います。論理実証主義はヴィトゲンシュタインの、反証主義はポパーの、パラライム論はトーマス・クーンの学説です。
①「私は、論理実証主義も反証主義もパラダイム論も全面的に間違っているとは思わない。どの主義・見解も、部分的には科学の側面をうまく捉えていると思う。正しく捉えていると言うよりは、科学にはそのように理想化できる一面もある、と言う方がよい。これらの科学哲学初期の論点は物理学者にとっても傾聴に値すると思う。せっかくいい線を行っていたのに、「これが科学の必要十分条件なのだ」という極論に走ってしまったから、あるいは、極論として受け止められてしまったから、つっこみどころができて、つぶされてしまっただけのようにも思える」(p76)
②「実在論・反実在論論争というのは、「科学という非人格的な総体は、メタフィジクスにコミットしているのか、していないのか」というテーマについての哲学者たちの討論会である。だから各科学者の意見なんかどうでもよいのである。要するに、旧来の哲学の枠組み・区割りに収まり切らなくなってきた科学というものを哲学者たちはどう受け止めたらよいか悩んでいるだけの話なのである。それは「メタな立場からの考察」などという高尚なものではない。哲学者たちの思考整理の枠組みに収まらないような「科学」というものが登場して世の中で幅を利かせてきたという事態に遭遇して、何とか自分たちの思考の枠組みに押し込むか切り分けるかしようとあがいているのである」(p96)
この2点目について、主張自体には同意しますが、私の捉え方は若干ニュアンスが異なります。今の時代の諸科学は、かつての哲学の枠組みに収まらないほど、拡大・深化しているのは事実です。それら諸科学の多くを理解して、統括するのは、余程の天才でないと無理な気がします。しかし、それをなんとかやりとげようとあがく現代哲学者の営みは、無意味だとは思いません。広大な現代科学の前ではドン・キホーテのような無謀なものなのかも知れませんし、古代におけるプラトンやアリストテレス、近代における巨人的思想家たちのように、ひとつの思想で総合的に統括するようなことはもう無理なのかも知れませんが、それに対する努力は続けてゆくべきだと考える次第です。私はよく、普遍論争のようなものは、プラトンとアリストテレスの時代から、中世の普遍論争を通じて現代の科学的実在論と方法論的唯名論として継続し続けている、というようなことを書いていますが、それは、同じ内容が続いているわけではなく、科学が発展しても、現在の人間の性質からすれば、同じような捉え方は可能であるために、継続し続けている世界認識についての論争である、という意味だからです。この論争は、人間の認識パターンや思考パターンに根差している可能性があるからこそ延々と続いている可能性があるため、認知科学や脳科学、心理学や医学、或いは現在まだ認知されていない新しい科学分野などを総合して研究され、分類・体系化されるべき内容だといえる段階に来ているのではないかと思います。今後も簡単には解決することはなく、まだ数十年か、或いは数百年かかるかも知れない話だと思うわけです。とはいえ、谷村氏の主張を見ると、未だに秘教的・訓詁学的な哲学の欠点が継承され続けているようなので、哲学者は、最新科学をより深く勉強し理解し、議論を行っていって欲しいものです(認知科学を用いた唯名論的な科学論については、『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』が参考になります。この本についての筆写のアマゾンレビューはこちら)。
というわけで、ダントーの『物語としての歴史』について書くはずが、すっかり谷村省吾氏の論説『一物理学者が観た哲学 Philosophy observed by a physicist [〈現在〉という謎―時間の空間化批判 森田邦久 編著、 谷村省吾 分担執筆 勁草書房 2019 年発行]への補足として』の紹介となってしまいましたが、内容的には大いに『物語としての歴史』に関係があるものです。この論説は、歴史学方法論論説としても大変重要です。お奨めです。
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※16/Mar/2025 プラトンやアリストテレスの時代・・・の行の後に一部追加
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