最近読んだイラン関連本『古代オリエントの遺跡と文明』『言葉の国イランと私』『論理的思考とはなにか』


(1)安倍雅史著『古代オリエントの遺跡と文明 悠久なるイランと考古学者たち』、2026年、吉川弘文館

①どうでもいい能書き(本書の位置づけ)

176頁しかない薄い本です。この本は、2023年9月18日に出版告知がなされ、2024年初頭くらい刊行予定だった筈のものが、その後2カ月ごとに2カ月単位で遅延が続き、現時点では2026年4/14日の出版予定となっていますが恐らくまた2カ月のちに延期されるであろう、雄山閣『西アジア考古学の先駆者たち』に収録される予定の内容が、分割されて出版されたものだと推測してしまうものです(個人的に)。

全部で12種類の遺跡が扱われていますが、一カ所がイラクである以外はイランの遺跡であって、イラクの遺跡(というかイラクのは遺物)はアケメネス朝のものなので、イランと無関係というわけではありません。また、イランの遺跡のうち、4カ所はメソポタミア平原の延長であるイランのフーゼスタン州にあったエラム王国の遺跡であるため、「古代オリエントの遺跡と文明」との題名通りでもあります。とはいうものの、やはり「オリエントって題名にあるけど、これってイランの遺跡ばかりだよね」とまず思ってしまう人は多い筈です。

思うに本書は、『イランの古代オリエント遺跡と文明』という題名にしておけば、もう少し内容と一致した題名となったのではないか、という気がします。副題に「悠久なるイラン」と入れることで対策しました、ということにしたのだと思うわけですが、表紙の副題の文字サイズは、主題と一致させなくてはならなかったと思いますし、書店や図書館などでの登録題名も、「悠久なるイランと考古学者たち」まで一続きの題名で入力しなければあちこちで誤解を招きそうなタイトルとなっています。

こういう中途半端なことになってしまったのは、本書の内容はもともとは『西アジア考古学の先駆者たち』に含まれていたためだと強く推測されるわけですが、他に根拠がないため、あくまで個人的推測に過ぎません。が、『西アジア考古学~』がこれまでの再三再四どころか10回くらい延期している経緯を鑑みますと、何かもめごとが発生して、度重なる延期に業を煮やしたイラン担当者が、イラン編だけ本書に切り出してさっさと出版した、と思えてしまうわけです。

このような能書きをくだくだと書かなくてはならない心境となってしまうのは、内容は悪くはないものの、このページ数でこの価格は、、、と思ってしまう人もでてくることはありそうなことです。この本を手に取る人はニッチなイランのためなら経済感覚が麻痺している好事家ばかりではない筈ですから。

そういうわけで、一応納得できそうな諸事情をまずは書いておくことで、本書の薄さと価格について、正当な評価ができるようになる、とどうにも考えざるを得ず、まずはこのような書き出しとなってしまいました。そうして、書き出しといいつつかなりの文字数となってしまい、本書について書くことはあまりなくなってしまったような気がするわけですが、とりあえず以下で少し内容に触れます。


②内容紹介

目次は吉川弘文館のこちらのページにありますのでご参照いただくとして、本書は全12章、1章1カ所づつ遺跡が紹介されており、時代別に分類すると次のようになります。

先史時代1カ所、メソポタミア文明圏の影響下にある先史遺跡2カ所、エラム王国遺跡4カ所、新アッシリア時代の北イラン地方都市遺跡1カ所、メディア王国遺跡1カ所、アケメネス朝遺跡と遺物1カ所づつ、ササン時代遺跡1カ所、合計12カ所

いずれも、遺跡発掘者の略歴の解説があり、そのあと遺跡詳細の解説という構成となっています。遺跡発掘者の解説(おおよそ半頁~3頁)はそのままイラン考古学者と考古学史の解説となっていて、この部分が副題の「イランと考古学者たち」に相当する部分となっています。また冒頭に8頁の「イラン考古学の研究史」という節があり、16世紀以降の簡略な近代イラン考古学史となっています。

紹介されている、イラン考古学史上に名をとどめている考古学者は以下の面々です(有名考古学者が登場しない章もある)。各章の遺跡は目次をご覧ください。

ユーセフ・マジッド・ザーデ(1936~)(3章)
 テヘラン大学士→シカゴ大博士→テヘラン大(1971‐79)→仏→1997~イランで発掘調査:コナル・サンダル遺跡
エッザトッラー・ネギャフバーン(1926~2009)(4章):イラン考古学の父
 テヘラン大学士→1949シカゴ大1954修士→1955テヘラン大→革命後渡米:ハフト・テペ

ロマン・ギルシュマン(1895~1979):(5章)チョガ・ザンビール遺跡、ビーシャープール遺跡、ベグラム遺跡、スーサ遺跡、
 1914年ロシア軍士官→戦争、革命、内戦→イスタンブル亡命→パレスチナのキブツ→1923年頃パリ大、ルーブル学院→1930年フランス遺跡調査団参加
ウィリアム・サムナー(1928~2011)(6章)  :タル・イ・マルヤン遺跡
 1952年海軍兵学校→1960‐2イラン赴任→1964年ペンシルバニア大→1967年イラン移住→革命
ロバート・ダイソン・ジュニア(1927~ )(7章):ハッサンル遺跡
 1944年頃米海軍→ハーバード大→1954年ペンシルバニア大→バーレーン、イラン調査
カイル・ヤング・ジュニア(1934~2006)(8章):ゴディン・テペ遺跡とナジャフェハバード石碑
 プリンストン大→ペンシルバニア大学院博士

ホルムズド・ラッサム(1826~1910)(10章):ニムルド遺跡、クユンジュク遺跡、バビロン、ボルシッパ、キュロス二世円筒碑文
 モールス生→1848年頃オックスフォード大→1849~1854年レイヤードと発掘調査→1876~82メソポタミアで発掘調査

冒頭には各章に関連する写真を含むカラー写真が17枚掲載され、本文中にも図版や地図、写真が豊富に掲載されています。比較的読者に多面的な情報を与えやすいよう工夫されていて、丁寧な編集方針を感じます。

③つけたし

不満点もありますので、いくつか列挙したいと思います。

1.冒頭のカラー写真には、本書の内容(遺跡)と直接関係のない写真もいくつかあり、読者が内容を誤解する可能性がある

 その最たるものは、表紙と3枚目のカラー写真のナクシェ・イ・ロスタム遺跡。この遺跡はアケメネス朝諸王の王墓であるとともに、各墓の間にあるレリーフにはササン朝のものもあり、特に3枚目のカラー写真はシャープール二世がローマ皇帝をひれ伏させているレリーフが写っていて、まるで私のようなササン朝フリークへの誘蛾灯のようなものとなっていますが、本書にシャープール二世に関係するものは登場していません。アケメネス朝の墓もでてきません。14枚目のカラー写真のキュロス2世の墓も本文では登場していませんが、キュロス二世は登場しているので一応セーフです。

2.冊子版では地図の文字が小さすぎて読めない

関連地名が細かく記入されている地図が各章に挿入されているのはありがたいですが、冊子版ではかなり視力がよくないと読めない文字の小ささです。電子版の読者の方を向いた地図編集となっているように思えます。

3.第12章のササン朝時代のゴルガン長城遺跡

日本語で、ゴルガン遺跡のある程度の詳細な解説のある書籍を見るのは初めてです。画期的なことかもしれません。12章の目次は以下となっています。

 
第12章 「赤い蛇」―軍事大国ササン朝が築いた長城 ゴルガーンの長城
 「赤い蛇」の謎を求めて
 いつ「赤い蛇」が建造されたのか?
 誰が、何のために「赤い蛇」を建造したのか?
 「赤い蛇」は、いつ、なぜ、廃絶されたのか?

このように、ゴルガン長城の「謎」が全面に強く押し出された節題となっていて、「「赤い蛇」の謎を求めて」節冒頭でも

「長年、「いつ、誰が、何のために作ったのか」、また、「いつ、なぜ廃絶されたのか」が、大きな謎であった」

とされ、続いて

「いままで前4世紀にこの地に侵攻したマケドニアのアレキサンダー大王が建設を命じたとも、あるいはパルティア時代の前2世紀、前1世紀に作られたともいわれてきた。しかし、ようやく2005年になって」考古学調査が開始されて、というリード文となっていて、更に次節タイトルでも「いつ「赤い蛇」が建設されたのか?」とされ、本文でも「では、この巨大なゴルガーンの長城は、いつ建設されたのだろうか」とたたみかけるように謎の解明に向けて盛り上げるあおり文が続きます。

結論は、「この結果、ゴルガーンの長城は、従来いわれてきたよりもかなり新しく、5~6世紀、つまりササン朝時代に建設されたことがわかってきたのだ」との調査結果が示されるわけですが、これはちょっと違うでしょ、と思わざるを得ません。なぜならば、日本で一般向けにそれなりの量で初めて書かれたササン朝の通史を含む古代イラン通史本である足利惇氏著『講談社世界の歴史 第9巻 ペルシア帝国』(1977年)のp294に、

「ホスロウ一世は、カスピ海に近いダルバンドとダリアル(すなわちアラン)の両関門を新しく固めざるをえなくなった、彼はグルガーン(ヒルカニア)方面にも築城し、彼らの侵入阻止にあてた」

とあり、更に長城の写真が掲載され、そのキャプションは

「サッドーイーイスカンダル(「アレクサンダーの防塁」) ホスロウ1世によって北辺警護のために築かれた、全長100キロにおよぶイランの万里の長城」

とあるからです。私は、足利本のこのくだりを高校生の時読んで、以来ずっと記憶に残っていて、それから十数年後イラン旅行をした時ゴルガン長城遺構をみにいった経緯がありますので、足利本にあるよ!という話は声を大にしてアピールしたいわけです(このときのゴルガン長城旅行記はこちら)。
※Apr/16追記:山田信夫編『東西文明の交流2ペルシアと唐』(1971年)p21にもゴルガン平野の長城築城がホスロー一世の事績として記載されている。この記載のある章では著者の糸賀昌昭氏がギルシュマンの『イランの古代文化』等を参照したとあり(p10)、その『イランの古代文化』(1951年)日本語版(1970年)のp306にはホスロー一世時代に数キロに及び長城がゴルガン平原を守るためにカスピ海の東に築かれた、とあり、ホスロー時代建設説は諸説の一つとしてかなり以前から広く知られていたことがわかる※

本書の巻末「おすすめの参考文献」の冒頭に「青木健『ペルシア帝国講談社2020年』」とあるものの、足利惇氏『ペルシア帝国』はありません。こういうことが起こってしまうから、青木本だけを参照するのは問題なのです。古いとはいえ足利本は今だ有用なところもあるため、青木本を出した講談社からは同じ出版社ということで足利本の再販はもうないのだろうから、せめて他社が版権を取得して足利本を出して欲しいものです。

ところで、この件に関連して一部青木本を見返してみたところ、またも問題個所を発見してしまいましたので以下に詳細を記載します。

青木本のp250に、570年に北方に赴任していた可能性のある「北方アゼルバイジャン軍管区司令官ゴールゴーン・ミフラーン」なる者が、配下の指揮下の軍を息子に率いさせてイエメンに派遣した、との記載があります。更にp255こは、このゴールゴーンという人物は、バフラーム・チュービーンの祖父だと記載されています。

この出典は何で、どの程度確度の高い史実なのでしょうか?青木本には、この部分に関して仮説や解釈とは一切書かれていなません。一般読者は史実なのだろうと思ってしまうことでしょう。

検索してみたところ、トルコ版Wikipediaのバフラーム・チュービンの項目に「Büyükbabası Gurgin Milad(祖父のグルギン・ミラッド)」と出てきて、出典は、「Pourshariati, Parvaneh (2008). Decline and Fall of the Sasanian Empire: The Sasanian-Parthian Confederacy and the Arab Conquest of Iran」のp109だと註釈されています。そこで「Pourshariati, Parvaneh (2008)」を参照したところ、p103頁に次の記載があるのを見つけました(ページが違っているのは、手元にある「Pourshariati, Parvaneh (2008)」は、2009年のリプリント版だからかもしれません)。

これは、フランス人研究者リカ・ジゼランがまとめたササン朝の封泥印カタログのうち、8つの封泥が「spāhdeb(軍事司令官)」の称号が刻印されていて、うち3つがホスロー一世治世或いはそれ以降のミフラン家に属する人物のものだとの記載がありました。この三つのうち2つが4大管区のうちの北方管区のもの、ひとつが南方管区のもので、北方管区の2つのうち一つに Mihrānids Gōrgōn と刻印されているとのことです。

一方で、古代のアルメニア史家セベオスの年代記には、Mihrānid、Mihrewandak、別名 Gołon Mihrānという人物が登場していて、この人物は573‐5年にアルメニア戦線に送られたとの記載があるため、

「There is a strong possibility that this Gōrgōn of the seals is in fact the Gołon Mihrān of Sebeos」

と記載されています。北方管区司令官の封泥の名前と、文献史料の似た発音の人物が北方管区地域の戦争に送られたのだとすれば、同一人物の可能性が強そうだ、とここまではあまり問題がありません。しかし続いて、

In her remarks on the names of of these figurs, Gyselen notes that the name Gōrgōn might actually be Gōrgēn.   

If this figure is in fact Gōrgōn ,and if he is identicial with the  Gołon Mihrān of Sebeos, then quite likely this spāhbad of the north was the grandfather of Bahrām Chūbīn.

とあり、更にp104にも

Whether or not our identification of  Gōrgōn  Mihrān with Gołon Mihrān of Sebeos holds , it is extremely probable that Gōrgōn Mihrān was the grandfather of Bahrām Chūbīn.

とあり、著者のParvaneh Pourshariatiはゴールゴーン氏がバフラーム・チョービンの祖父であると主張することに、かなり前のめりに見えます。

しかし、Gōrgōn Mihrānが帝国北西地方を地盤とするミフラン一族である可能性はextremely probable といえるかもしれませんが、一族のリーダー格の誰か、ということ以上を主張するのはこの証拠だけでは難しいのではないかと思います。

典拠であるジゼランがササン朝の封泥を解説した著書『ACTA IRANICA SASANIAN SEALDS AND SEALINGS IN THE AlSAEEDI COLLECTION』(2007)を参照しますと、p50-51で北方管区の2つの封泥  GōrgōnとSēd-ōšの検討を行っていて、封泥には Khusrō としかないため、実際にはホスロー二世時代というのもありえるとのこと。ここでジゼランは、他の名前の封泥の称号や職名と比較し、称号の時代性を検討しつつおおむねホスロー一世末からホルミズド初期と考えることもできる、としています。そうして仮にホスロー末期の人物であれば、590年に反乱したバフラーム・チュービーンの父親世代の人物である可能性も十分ありえるわけで、大伯父、祖父、大叔父、伯父、叔父 という可能性があることになります。祖父だと断定できる根拠はありません。つまり、Parvaneh Pourshariatiが、チョービーンの祖父がGōrgōn  Mihrānだとの「可能性が極めて高い」とするのは前のめりにすぎ、恐らくこの部分に基づいて記載した青木本が、p250で、バフラーム・チョービーンの父のグシュナスプミフラーンがゴールゴーン・ミフラーンの息子であると断定し、p255ではゴールゴーンはチョービーンの祖父だと断定するのは行き過ぎだと見なしてよいと思います。

ここは、「祖父の可能性もあるゴールゴーン」「一族で指導的な役割を持つと考えられる年長者のゴールゴーン」としておくにとどめておくべき部分だと思います。
ちなみに青木氏は、p250でゴールゴーン・ミフラーンが息子のグシュナスプ・ミフラーンをイエメンに派遣した、と書いていますが、Parvaneh PourshariatiのGōrgōnに関する記載にはまったく言及がありませんし、タバリーによればイエメンに最初に派遣された将軍はワフリーズとなっていて、彼の父に関する話は登場していません。北方司令官がイエメンへ軍を派遣したことに関し、セベオスに何か記載があるのではと、英語版(こちら)を検索してみましたが、見つかりませんでした。イエメンへ息子を派遣したとする青木氏の記載も詳細を確認する必要がありそうです。なおセベオス英訳(こちら)ではゴールゴーンは、Goghonとの表記となっています。

□関連記事(↓以前作成した記事ですが、本書冒頭のイラン考古学研究史を参考に修正する必要のある部分があるかもしれません。そのうちやります)






(2)岡田恵美子著『言葉の国イランと私』、2019年、平凡社

留学前の自伝パートでは、いくつも驚かされました。

イランにおける考古学研究史入門を読んだところで、日本におけるペルシア文学研究史について少し知りたくなったのでまずはとっかかりとして読んでみました。驚いたことがいくつもありました。

まず大きな思い違いをしていたことがわかりました。なんとなく、日本における各種近代学問は、すべて明治か大正時代に遡るものだと思っていましたが、ペルシア語とペルシア文学については、私が壮年になってもまだ存命で、21世紀に入ってからも新刊書を出し続けていた黒柳恒男氏(1925~2014年)であることがわかりました。1932年生まれの岡田恵美子氏は黒柳氏の弟子ではあるものの、ほぼ同年代で、先行研究者が日本にはほとんどいない中での、いわば創業者世代であることをはじめてしりました。ペルシア文学なんて明治以来の伝統があるのだろう、くらいに思い込んでいたため、この点が一番の驚きであり収穫でした。

本書は、著者の回顧エッセイとしては1981年の『イラン人の心』の続編的位置づけとなるようですが、目次は以下の構成となっています(留学の記については節題を省いています)。

イランと私(13)
 砂漠と出会う/不可能な道/捨て石/バラ園への道/ペルシア語超特急/拾った恋/テープレコーダー/国王への手紙/幸運/象牙の帯留め/ジェラルミンのトランク/夢をのせて/その頃のイラン

留学の記(73)
 1年目 サラーム(74)
 2年目 陶酔境(92)
 3年目 神秘主義(107)
 4年目 ホダーハーフェズ(さようなら)

今のイランいつものイラン(139)
 イランは今(142)
  言論の自由/プライド/女の美徳/鷹揚な絨毯やさん/労働は神か/ペルシア文字の渡来/庭園の美学/六言五行/楽園の思想
 イラン人の衣食住(177)
  いしゃれな黒衣/鱗のない魚、甲羅のある魚/レンガからレンガまで/イランの年中行事と祭祀/イラン古来の習俗

ペルシアの箴言・イスラームの知恵(199)

あとがき(257)

『イラン人の心』は1963‐7年の留学時代の話が対象で、革命直後の出版とあって、革命政権を向うにして書けなかったことなども本書第二部「留学の記」に記載されている点有用です。

第一部「イランと私」は、留学前までの著者の略伝。驚いたのは、26歳になるまでイランともペルシア語とも無縁で過ごしてきた中学校の国語教師が、26歳の時に見に行ったイランの発掘遺跡展示会で大きく興味をそそられペルシア語学習を開始、日本の大学の外国語学科に在籍したこともないまま5年後の31歳になってイランに留学してしまう、というすごい情熱と行動力。続いて驚いたのは、当時公的関係がほとんどないイランに留学するために少し書けるようになったペルシア語で国王に手紙を書き、幸運にも国王の目にとまってイランが費用をもつ国費留学生としてあれよあれよという間にテヘラン大学で学び始めてしまったこと。

通常(比較的)マイナーなジャンルの草分けとなるような人は、もともととメジャー路線にいて(フランス語学科出身とか)、たまたま強力なライバルがいたのでフランス語で身を立てることを断念して転身したとか、なにかのきっかけで他言語に興味を持ち転身したとかの、もともと言語学習のプロフェッショナルな人が未開ジャンルを開拓する、というようなイメージがあったので(日本ビザンツ学の尚樹啓太郎氏などはこのパターン)、岡田氏の場合も最低限そのパターンか、そもそも既にできていたペルシア語学科を出ている人だと思い込んでいたのですが、これはすごい。杉並区の育ちなので、幼稚園の同級生が江上波夫氏の子供だったことで江上氏を介した人脈を利用できた、という幸運もあったにせよ、驚きの行動力。凄い。

元軍人である父親という人にも驚いた。それほど裕福な家ではないため、国立大学&在学中アルバイト、という条件で娘2人を大学にやり(裕福でないなら大学なんていかなくても良い、という人の方が多かった時代)、留学を希望する著者に対し江上先生が「あなたは人の捨て石になる覚悟はあるかい?」といった先生の言葉を著者からきいた父親は、「捨て石か‥‥それは結構だ」と答えたという。しかも続いて「これまで人のしてこなかった勉強をして、偉い者になろうとか、注目を浴びようなどと考えてはいかん。学問とは多くの場合、何にもならんもんぞ」と答え、ミッション系の学校を出ているらしき母親も「お父様のおっしゃるとおりです」と言葉をかけ背中を押す。身近に逆風をかけてエネルギーを浪費させるような人がいなかったことも著者の幸運だと思えました。留学に向けての数々の関門に関し、江上先生がかけた「必要なら僕の弟子だといいなさい。僕はそう思っているんだから」という言葉もじんわりきました。

第二部留学時代編はよくある異国滞在記という感じでしたが、インドとパキスタンからの留学生が目に付いたのは意外でした。近世までペルシア語文化圏だったからなのかも知れません。

第三部「今のイランいつものイラン」は、留学以降に訪問したイラン社会とイラン人の様子。

第四部「ペルシアの箴言・イスラームの知恵」は、ポピュラーな箴言の紹介を中心に、ペルシア文学史上の有名作品を紹介する、というもの。以下の作品が登場しています(ただし最初の作品はペルシア文学ではないが)。

 ギルガメッシュ叙事詩/古代ペルシア伝説/王書/11世紀の詩人ファッルフィー/ヴィースとラーミーン/カーブースの書/ハイヤーム・ルバイヤート/四つの講話/ホスローとシーリーン/バラ園/ハーフィズ詩集/ユースフとズライハ/民話/その他出典のない警句



(3)渡邉雅子『論理的思考とはなにか』2025年、岩波新書、

異なった社会における「それぞれの論理的思考とは何か」、を分析した、異文化コミュニケーションにも役立つ本です。

一見イランと無関係な書籍に見えますが、この本は、米国、フランス、日本、イランの四か国の教育における論述形式の相違を、文化的基盤として分析した書籍なので、イランと大いに関係があります。ざっくりいってしまえば間接的に論じている部分(例えばイランが該当する論理思考の形式分類について論じている部分など)を含めれば1/4がイランを扱っている書籍だといえなくもない書籍となっています。この点で、本書はイラン関連書籍であることになります。

個人的には、本書で論じているのは、論理的思考というより論理展開を規定する文化的基盤を論じた書籍だと思いました。論理と論述、論理形式と思考法などの間は、人によって境界があいまいで、両者重なる部分もあり、本書で論じている内容を「論理的思考」と考える人もいるだろうから、題名が誤っているといいたいわけではありませんが、個人的には論理的思考とは、本書で分類するところの形式論理であって、これに分類されているのは米国の論理思考のみが該当するように思えます。その視点に立てば、他の三か国について本書が論じているのは、「論理そのもの」ではなく、各々の文化(教育)が規定する、「論理展開の形式=論述形式の方法の相違」であり、広い意味での、各々の文化のもつ「合理的思考」というものの特徴と相違について論じているものだ、と思うわけです。

個人的な語感からすると、合理的思考は文化ごとに異なることもあるけれども、形式論理は、文化に関わらず国や社会によって差異が出てしまう程度の普遍性ではなく、どの社会でも数学が同様に受け入れられているように、形式論理の部分については共通しているものとして、私はとらえています。もう少し端的にいえば、
合理的思考の方がより幅が広い概念で、合理的思考も、根底では形式論理を採用している、そうでなければそもそも「論理」という言葉の定義自体が、各文化圏で異なる、という定義の話になってしまい、比較文化という学術研究自体が成り立たなくなってしまいます。この意味では、本書が論じているのは「論理的思考」そのものではなく、「文化と社会における「論理的思考」の社会的分析」であり、形式論理とはなにかを普遍的論理に向けてとことん追求する、という意味での「論理的思考とは何か」ではなく、「社会において「論理的思考」と見なされているものについて、異なった社会における「それぞれの論理的思考とは何か」、の分析」という内容なのだ、と言えます。

とはいえ、本書を読んで、論じられている四つの国の論理的思考とされているものが、まさに論理だ、と思う人もいるだろうから、この点で本書はぎりぎり私のような形式論理至上主義みたいな人にも受け入れられる、その意味では大変攻めている議論をテーマとした書籍だと思います。

本書の非凡なところは、各国の「論理的思考」を分類・分析・特徴づけるだけではなく、他の「論理的思考」からすると、その国の「論理的思考」はどのように見えるのか?について、すべての組み合わせで論じているところです。形式論理が論理だと思っている米国人からすると、他の三国のそれは「それは論理とはいわない」「無駄の多い冗長な論述」「ポエム」に見える、といったようなことです。しかしそれが他の三国から見れば、別の見方ができ、確かにその観点からすれば、そのように見えるようなあ、と納得させられる分析結果も多く、この点で、本書は異文化コミュニケーションの本でもある、といえそうです。

最近古代中世インド哲学本を続けて読んでいて、古代中世インド哲学における論理学の発達には古代中世ヨーロッパを凌駕するとさえ思える部分があるように見えるわけですが、学派によるとはいえ、結局のところ、論理で決めきれない部分については、主流学派ではヴェーダという至上の聖典に典拠が求められてしまう時点で、本書で解析されるようにイランの論理展開と同分野になるのではないか、という気がしました。著者には、今後インドと中国とロシアの論理的思考も研究対象に含めて欲しいと希望する次第です。しかしこういう比較文化の論じ方は、究極的にはウェーバー的比較文化論の結論の範囲に収まり勝ちになりそうな気もしてしまうわけで、そうならないような方向に、次元の一段高い段階へと展開していって欲しいと願う次第です。

本書の日本のパートを読んでいて、(個人的印象では)、小説についての2010年ころから2015年頃のアマゾンレビューで特に頻繁に見られた印象のある、「感情移入できる登場人物がいなかった、☆0」みたいなレビューの背景には、日本における国語の作文授業(本書ではこれが「論理的思考教育」として論じられている)にあるような気がして納得できてしまいました。感情移入や共感を教育の主題とするのは良いのですが、それはそもそも、異なるものへの理解の糸口を探る、という意味での共感教育だと個人的には期待するわけですが、一部の生徒にとっては、「自分が共感できるものとできないものを分類する」という教育として受け取られてしまっているような気がしました。共感教育の鬼子みたいなのがあれら好悪レビューアの思考なのではないか、と思った次第です。

私はずっと、論理、及び論理的思考とか、合理性といったものは、合理も非合理も含む総合的な性質を持つ人間性にとっては、疎外するストレスフルなものだと思っていたので、本書で著者の指摘する、”読みやすい文章だと感じるのは、自分の期待通りの論理展開がなされていると、気持ちよく感じるからだ”という内容には大いに納得するものがありました。確かに予想していた単語が次に登場する、これが続く文章を読むと、「この人の文は読むのが楽だ」と思うわけで、もしかしたらうっすらと「この人は論理的だ」と心の中で思っていたかも知れず、形式論理以外のものも論理だと無意識に見なしていた部分も自身のうちにあるのではないかと気づきました。

一方で、プロフィールに「論理的です」と自己紹介しながら、口論になると突然詩を読みはじめるような人にこれまで複数遭遇したことがあり、これってなんらかの発達障害とかでは?と思ったりしていましたが、あれらももしかしたら日本の作文教育の結果の文化的思考形式なのではないかと見れるようになりました。

このように、本書はいくつもの発見のある大変有用な書籍です。本書の大元となった研究書『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』も読んでみようと思っています。お薦めです。

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この記事へのコメント

  • 不重力日月王

    💩💩💩‼️
    2026年03月15日 20:22