紀元前2千年紀後半の時代のオリエントの四大大国(ヒッタイト、エジプト、ミッタニ/アッシリア、バビロニア)鼎立時代の周辺諸地域を扱った書籍です。
(1)周防芳幸著『ミケーネ文明 ー古代ギリシアの原像』(岩波書店、2026年)
本書は読み物的な内容ではなく、教科書的な内容の概説書です。本文は170ページほどしかない小著ですが、学術的なミケーネ研究史と研究結果がバランスよく記載されており、教科書タイプとしては極めてオーソドックスな構成だと言えるのではないかと思います。各章の内容を要約すると以下のようになり、最終章のみ20ページと少ないものの、他の章は30ページ前後と、ページ配分的にもバランスのよい配分となっています。
はじめに
第一章【導入】
第二章【通史】
第三章【主要史料(主要遺跡)紹介】
第四章【史料(考古学の研究成果)からわかる社会】
第五章【他者から見たミケーネ(周辺他文明側に残るミケーネの痕跡)】
第六章【後世への影響】
年 表
あとがき
あとがき
参考文献
近年の前2000年期の西アジアを扱った学術概説入門ですと、年代順に解説されてゆく、読み物的なアプローチを期待する読者にもとっつきやすい『 アッシリア 人類最古の帝国 (ちくま新書1800) 』(2024年、山田重郎著)と、学術研究の諸側面を解説した『 ヒッタイトの歴史と文化: 前2千年紀の忘れられた帝国への扉』(2021年、ビリー ジーン コリンズ著)などがありますが、本書は後者に分類できる本です(一応本書の著者要約解説のようなものは「はじめに」に記載があります)。
以下章題と内容の簡介です。
【 導入部 】第一章 失われた文明をもとめて
ミケーネという言葉を知る人であれば想起するであろう、ミケーネ時代を舞台としたホメロス叙事詩とシュリーマンの遺跡発掘の話題とその後の発掘史概要
【 通史部 】第二章 歴史のなかのミケーネ文明
他の地域や時代であれば、政治史を中心とする通史が期待されるパートだが、ミケーネについては後世の伝説的叙事詩以外文章史料がないため、出土文献に記載されたほぼ会計台帳のような文書と考古学遺物や遺跡・環境史学などから推定される約五〇〇年に及ぶミケーネ時代の歴史的展開の素描となっている。王名含め人名がほぼ残っていないため、政治史は描けないが、遺物の展開範囲やその変遷、遺跡の興廃の様子からもある程度の社会の様相や時代展開を推定することができるため、意外に通史っぽく読める出来栄えとなっている。これをどう評価するか立場が分かれるものと思われ、古代ギリシアときいて少しは人物伝的なものもあるのだろう、と期待した読者には肩透かしかも知れないが、文献史料がほぼないことを知っている読者にとってはそれなりに通史としてまとめることが可能であることが意外に感じられ感心する人もいるのかも知れない(私は意外に感じられ感心しました)。
【 主要史料(主要遺跡)紹介 】第三章 ミケーネ文明の遺跡を訪ねる
地域別の遺跡と発掘成果の紹介。アルゴリス地方(ミケーネ、ティリンス、ミデア)、メッセニア(ピュロス)、アッティカ(アテネ、トリコス、マラトン)、ボイオティア(テーベ、オルコメノス、グラ)。ミケーネ、ピュロス、オルコメノス、ティリンスくらいだと思っていたので小著としては意外に網羅的で驚く。
【史料(考古学の研究成果)からわかる社会】第四章 諸王国の統治構造
線文字B粘土板文書研究史、出土文書からわかる社会 遺物からわかる武器と戦争などホメロス叙事詩とも絡めての解説。叙事詩の裏付けとなる遺物があることがわかる。
【 周辺他文明側に残るミケーネの痕跡 】第五章 東地中海世界のミケーネ文明
エジプト、ヒッタイトなどの同時代文献、沈没船(水中考古学)などからわかるミケーネ。一般向け世界歴史シリーズで扱われる程度のミケーネに関する知見のある方でもこの章の内容は比較的はじめて接する人も多いかも知れない。
【 後世への影響 】第六章 ミケーネ文明の遺産
三つのテーマで後世への影響が紹介されている。
①古典期のギリシア社会との連続性(古典期の都市や習俗が近年の発掘調査でミケーネ期に遡ることが判明)、
②近年の研究における、後世に成立したホメロス叙事詩との関連性に関する新たな見解の一部
②近年の研究における、後世に成立したホメロス叙事詩との関連性に関する新たな見解の一部
③近年提唱されるようになった「文化的記憶」という方法論から捉えた場合のミケーネの後世への影響
巻末に関連文献一覧があり、日本で出版されている近年のミケーネ関連の書籍も基本的なものは掲載されています。私が読んだ本の中では、本書第五章についてはエリック・クライン著『B.C.1177年』(筑摩書房、2018年)がお薦めですが、この本は現在品切れとなっており、文庫版等での復刊が望まれます。トロイア戦争についてはエリック・クライン著『トロイア戦争:歴史・文学・考古学』(2021年、白水社)、ミケーネ含む先史時代のギリシア史については周防芳幸著『ギリシアの考古学』(同成社、1997年)などがお薦めです(『ギリシアの考古学』は本書の著者の本なのにどういうわけか巻末文献一覧に乗ってません。ミケーネ以外の時代も含んでいるからなのか。私は結構好きな本です)。
最後に「
このレビューを読んでから本書を読んだので、p18で「トロス墓」が登場した時に、これか、と思いました。トロス墓はp35に図解入りで解説されているのですが、索引があれば、p18で馴染みのない用語が登場した時に索引に飛んで、解説のある個所を検索することもできるのですが、本書は索引がないので、確かに少し不親切なところはあるのだと思います。初心者は、順番に読んでいって、解説のない用語がいくつか登場した時点で脱落してしまう、なんてことは普通のことです。私が気づいたのはトロス墓だけですが、他にもあるのかも知れませんし、それらに遭遇して脱落する初心者の方がいても不思議ではありません。もしトロス墓以外にこうした用語に気づいた方は、レビューで補ってあげるとよいのではないでしょうか。それがネット時代の在り方であるのではないかと思います。
(2)ピーター・クレイギー著『 (聖書の研究シリーズ 34)ウガリトと旧約聖書』小板橋又久 · 池田潤訳、津村俊夫監訳. 教文館. (1990年)(原著『Ugarit and Old testament』(1983年))
最近ではなく昨年読んだ本です。
一昨年読んだロバート・R・カーギル著『聖書の成り立ちを語る都市:フェニキアからローマまで』で資料として挙げられていて知った本。ウガリトの研究史の概説書が日本語ででているとは知りませんでした。大著というわけではなく、いまでいう選書的なスタイルの本で、それほど厚くもなく、平易な内容なのですぐ読めてしまいます。しかも内容は予想以上にしっかりしていて、聖書との関連というタイトルであることから、もっとセンセーショナルな書き方や、「旧約聖書の真実」的なあおりでアプローチしてくる本かと思っていたら、全然違った普通の研究史本でした。良書です。
まえがき(5)
第一章 聖書の世界への新しい光(11)
第二章 失われた都市の再発見(18)
第三章 古代ウガリトの生活(47)
第四章 ウガリトの言語と文学(75)
第五章 旧約聖書とウガリト学(116)
第六章 新発見および今後の展望―エブラとラス・イブン・ハニ(159)
第七章 今後の研究のために(178)
第二章 失われた都市の再発見(18)
第三章 古代ウガリトの生活(47)
第四章 ウガリトの言語と文学(75)
第五章 旧約聖書とウガリト学(116)
第六章 新発見および今後の展望―エブラとラス・イブン・ハニ(159)
第七章 今後の研究のために(178)
訳者あとがき(203)
索引(1)
聖書箇所索引(6)
第一章は概要みたいなもので、本論は二章以降です。二章は都市ウガリトの遺跡発見と発掘、そこで出土した文書の言語解読の研究史です。1976年頃までの状況が解説されています。三章は一般的は意味での生活というより、遺跡からわかる当時の都市ウガリトの都市内部の建造物の配置、発掘文書からわかる諸王の時代の簡単な歴史や交易先や交易内容、物資の価格や農業や鉱業など各種産業の様子など、政治社会産業など出土文書からおぼろげにわかる社会の諸相全般が描かれています。四章はウガリトの文字と言語の特徴の具体的な解説で、難しすぎず初心者にわかりやすい解説となっています。ここでいくつか以下のウガリト文学の梗概が紹介されています。以下の作品です。
1)ケレト王伝説
2)アクハト伝説
3)バアル神話
a)バアルとヤム b)バアルの宮殿 c)バアルとモート
これらの多くはすでに全文が日本語に翻訳済で、筑摩世界文学大系『古代オリエント集1』に以下の4つの物語の日本語訳が収録されています。
ケレト
アクハト
バアールとアナト
ニッカルと月の結婚
というわけで、本書のタイトルの内容を扱っているのは第五章だけ、ということになるわけなので、旧約聖書との関係部分だけで一冊読めると思って本書を手にとった方にとっては期待外れとなってしまう内容かもしれませんが、それでもこの第五章は、本書で一番長い章となっていて43ページあります。ここは少し予想外の内容で驚きました。ウガリト文学が旧約聖書に影響を与えた、という言説をよく目にするので、ウガリト文学のストーリーやキャラクターそのものが直球で旧約聖書にトレースされたのか(すなわちカナンの文学が名前を入れ替えてヤハウェ化した、とする)、と漠然と思っていたのですが、違いました。一神教を成立させつつあった古代のヘブライ民族が、移住先のカナンの地の人々に布教するにあたり、カナンの地の人々が理解できる形へとヘブライ民族が自らの神話を、カナン神話の要素を取り入れてカスタマイズした、というようなものだったり、一部のヘブル語の単語がウガリト語の解釈をとることで、従来の聖書の用語の意味とは別の単語に訳されるべきだと判明したり、と、細かい成果が紹介されていました。ウガリト文学と旧約聖書文学的な継承関係ある、というものではなく、どちらかというと、ウガリト語文献を用いて旧約聖書を校訂する作業が行われている、と理解した方がよさそうです。
六章は、1970年代中盤以降の、都市ウガリト以外のウガリト関連遺構の発見・発掘と出土文書の話で、テル・マディク(都市エブラ)、ラス・イブン・ハニなどについての記載となっています。首都ウガリト市だけではなく、首都以外の都市や遺構が発見されることで、ウガリト王国が面的に理解されるようになった重要な発見という位置づけとのこと。第七章は、研究者向けの文献目録や、ウガリト遺物を収蔵している博物館などの情報となっています。索引もあるし、関連する聖書の箇所を示した巻末の聖書箇所索引も有用です。
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